伊達氏の本拠地を治める城。
大森城
所在地
別名
福島県福島市大森
:臥牛城
築城者
築城年
:未詳
:不明


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■政宗の大叔父

 奥州の覇者となった伊達政宗は、多くの有能な家臣に支えられていましたが、その中でも正しく双璧を成す二人の名将がいました。豊臣秀吉もその才気を愛したと言う片倉景綱と、勇将としてこれまた天下に知られた伊達成実です。ともに政宗世代の武将と言える二人ですが、成実は、政宗と景綱の関係が弟と兄の様であったのと対照的に、政宗の弟のような年頃の男子でした。しかし実のところ、政宗から見た続柄は、従弟ではなく従弟叔父に当たります。つまりは、政宗の祖父である晴宗の弟・実元の子と言うことになります。
 実元がまだ幼少の頃、晴宗は既に青年武将の風格を備える年頃に差し掛かっていました。二人の父・稙宗は、幼い実元を養子として越後守護上杉定実(後に越後を治めることになる上杉謙信こと長尾景虎とは別系統)の下に送り込もうと画策しましたが、晴宗はこれに反発しました。この諍いに端を発したのが、戦国時代の東北地方に争いの火種をばらまいた天文の乱です。
 自然な成り行きで、実元は稙宗に属して兄と戦うことになりましたが、6年に渡った父子の相克がどうにか終息すると、実元は大森城に入り、信夫郡の鎮めとなりました。大森城の起源は定かではありませんが、史上にその名が見られるようになるのは、この時期が最初であるとして良いでしょう。政宗時代になると、米沢城岩出山城仙台城と、宮城県と山形県の南部を根拠地としたイメージの強い伊達氏ですが、もともと伊達郡及び信夫郡周辺を起源とする一族でした。
 父祖伝来の地を守り続けた実元は、やがてその拠点となる大森城を成実に継承させました。大森城は、政宗時代における伊達氏南進の拠点として重要な役割を果たしたものと思われます。天正17年(1589)に政宗は、摺上原で会津黒川城の蘆名義広を破り、最大版図を築き上げますが、既に秀吉による天下統一の到来は近く、政宗自身も小田原に参陣することになりました。この後、会津地方を中心とする蘆名氏の旧領とその周辺地域は秀吉に没収され、大森城の支配権も黒川城に封じられた蒲生氏郷に委ねられることとなりました。蒲生氏時代に入って、大森城は廃されたようです。

■ハイキング向けの公園でも…

 はっきりとした記録が残された時期が短く、かなり短命の城であった可能性も考えられる大森城ですが、資料の少なさは現在の城跡保存にも影響を及ぼしているのか、城山公園となった現在、その整備状況は何となく物足りなさの残るものとなっています。最寄駅となる南福島駅で「ハイキングに好適」と紹介されるほどに整備された公園ですが、城郭遺構と呼べるほどのものはほとんどなく、櫓風の展望台が設置されていはいるものの、考証は全く無視したものであることがはっきりと謳われています。城跡が都市公園としてよく整備されているということは、しばしば城郭時代の遺構にかなりの改変をえられている可能性を示唆するものですが、ここ大森城においてもそれは全くあてはまります。一応、城山風の公園であるとは言えそうです。
 なお、安達太良山への眺めがよく、時期となれば桜の名所としても名高いのだそうです。また、城山の一画には古墳も存在していたようですが、この小高い丘そのものが墳丘と言うわけでもなさそうです。

(2015年10月05日 初掲)





















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