織田氏琵琶湖水運網の一翼を担った城。
大溝城
所在地
別名
滋賀県高島市勝野
:大溝陣屋
築城者
築城年
:津田信澄
:天正6年(1578)


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■信長が頼んだ甥

 足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、近江に本拠を移すとともに、琵琶湖を取り巻く各地にいくつかの城を築かせています。自身の安土城はもちろん、羽柴秀吉の長浜城、明智光秀の坂本城などがその代表的なものです。大溝城もそうした城の一つで、琵琶湖に面して築かれました。現在でも城跡から琵琶湖までは指呼の距離にありますが、その昔は湖水を堀の水として引き入れていたようです。大溝城ほかの近江城郭群は、琵琶湖を介してネットワークを形成する役割を期待して築かれたものでした。
 城主の任には、信長の甥に当たる津田信澄就いていました。尾張時代の信長がうつけなどと呼ばれていた頃、謀反の廉で誅された弟・信勝の息子に当たる人です。亡父と伯父の関係は難しいものがありましたが、それでも信澄は、信長から重く用いられていたと言われています。しかし残念ながら、明智光秀の娘婿だったことから、本能寺の変から間もなく、織田信孝と丹羽長秀によって討たれてしまいました。真に光秀と結んで織田宗家と対決する意図があったかどうか、今となっては定かではありません。一門衆としての序列は高かったと伝えられることから、あるいは信長の後継問題を巡って敵対する可能性のあった信澄を、信孝が排除したという図式も成り立つのかもしれません。

■京極氏を経て分部氏の時代へ

 信澄の死後の大溝城主は、長秀を皮切りに織田旧臣系の大名が相次ぎましたが、比較的よく知られるのが京極高次です。わりと最近の大河ドラマで浅井三姉妹が主題となったことがあるため、現在当地を訪ねると、それにひっかけて沿革が紹介されています。なお、高次が妻としたのが三姉妹の次女・初でした。京極氏は近江源氏の流れを汲み、本来であれば浅井氏の主筋にあたる家柄でしたが、下克上の戦国時代にあって、浅井氏にとってかわられていました。それでも京極氏は浅井氏の庇護のもとに永らえていたのですが、初を娶った高次のみならず、その父である高吉もよく知られる京極マリア、すなはち浅井久政の娘を妻としており、良きにつけ悪しきにつけ、浅井氏との因縁には断ちがたいものがありました。もっとも、高次と初の縁組は浅井氏の滅亡から久しい天正15年(1587)の出来事だったのですが。
 高次が大溝城主となったのはこれとほぼ同時期のことで、北近江の安定支配のため、羽柴秀吉によって京極氏や浅井氏の名望が利用されたとみるべき入封だったのかもしれません。京極氏は後年、若狭小浜城に転封され、代わって大溝城には分部光信が封じられました。しかし、大溝城は元和の一国一城令によって廃城となり、その縄張りの一部を陣屋とし、大溝藩は明治維新まで存続しました。
 現在は、水田に囲われた中に石垣をまとう天守台が残っています。それだけと言えばそれだけの城跡ですが、石垣の残存状況は平地の城としてはかなり良好と言えるでしょう。また、水田にしてもかつて周囲に湖水を引き入れていた城の縄張りの名残として良いものと思われます。

(2017年04月28日 初掲)















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