「名君・豊臣秀次」を偲ぶ城。
近江八幡城
所在地
別名
滋賀県近江八幡市宮内町
:八幡山城
築城者
築城年
:豊臣秀次
:天正13年(1585)


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■近江の盟主たち

 近江八幡の街の中ほど、標高271.9mの鶴翼山(八幡山)の山頂に、近江八幡城がありました。豊臣秀吉の甥にあたる秀次の城として知られるお城ですが、古くは六角氏の臣・伊庭氏がこの地にありました。資料によると長享(15世紀末)の話のようです。
 その後、伊庭氏の主筋に当たる六角氏は織田信長の上洛に反抗し、やがて近江の地を追われることになりました。上洛の余勢をかった信長は畿内での地歩を着実に固め、名実ともに天下人の座へと登りつめて行きます。ほとんど天下を手中にした信長は、六角氏の観音寺城があった繖(きぬがさ)山に連なる安土山に、壮麗な安土城を築きました。近江のこの辺りは、京に近過ぎず遠過ぎず、都のわずらわしい因習を嫌った信長には都合の良い場所だったのでしょう。しかし信長が本能寺に倒れ、その覇業がむなしいものとなった時、豪壮を誇った安土城も灰燼に帰しました。
 本能寺から3年程が過ぎた天正13年(1585)になって、この地にやって来たのが秀次でした。
 

■短命の城

 近江四十三万石の主としてこの地に封じられた秀次は、程なくして八幡山城の建設に着手しています。かつて信長が注目したように、南近江のこの場所は政治的にも軍略的にも重要な意味を持つ土地で、秀吉が肉親である秀次をここに置いたのも偶然ではなかったのでしょう。
 後年「殺生関白」の悪名とともに無情にも葬り去られることになる秀次ですが、決して凡庸な人物ではなかったようです。大河ドラマなどでは小牧長久手の戦いにおいて拙速な戦略から池田恒興・森長可らを死なせてしまう大失態の場面ばかりがよく描かれますが、それ以外ではちゃんと戦功も挙げており、近江移封にしても数々の戦での活躍を評価されてのものだったといって良いでしょう。
 さらに秀次は、八幡城下でも善政を施したと伝えられています。安土の城下町の一部を八幡山の麓に移して碁盤目状の街を築き、域内振興のための政策においても信長の施策を参考にして城下町の繁栄を図りました。
 秀次自身は天正18年(1590)の小田原征伐の軍功で尾張北勢百万石の太守として清洲城に移り、その後は京極高次が二万八千石で封じられました。高次も秀次の政策を継承して八幡城下を繁栄させましたが、文禄4年(1595)に大津城へと移封になります。高次の跡には代官が置かれ、八幡山城は廃城となりました。
 

■近江の眺め

 鶴翼山は湖東平野の中に突き出た独立峰で、麓から歩いて登るのはなかなか大変なようです。幸い山頂付近と麓を結ぶロープウェー(15分間隔で運行)が営業されているので、これを利用するとあっという間に頂上部まで移動できます。山頂の城跡には秀次の菩提を弔う村雲御所瑞竜寺があります。昭和37年(1962)に移設されたものらしく、お寺の建物は比較的新しい印象を受けます。この他には展望台兼土産物屋があり、こちらでは秀次と近江八幡の街の略歴が紹介されています。
 城郭遺構としては石垣が目に付きますが、全体的にあまり城跡という雰囲気はありません。むしろ平野部の独立峰という立地条件から、眺望スポットとして優れた場所と言えるでしょう。展望は実質的に全方位に開けており、琵琶湖越しに見晴るかす比叡山の雄大な姿や、指呼の距離にある安土城跡や観音寺城跡といった歴代為政者たちの夢の跡、そして秀次が築き今に残る八幡の町並みなど、どの方角を見てもなかなか飽きが来ません。
 なお、山麓の八幡公園には秀次像が立っています。ロープウェー山麓駅近くにある日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)に立ち寄ってみるのも面白いかもしれません。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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