長宗我部氏累代の城。
岡豊城
所在地
別名
高知県南国市岡豊町八幡
:なし
築城者
築城年
:長宗我部氏
:13世紀


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■秦氏の後裔

 戦国末期から安土桃山時代にかけ、事実上の四国統一を成し遂げた長宗我部氏ですが、その前段となる土佐統一は、累代の居城・岡豊(おこう)城を拠点として行われた事業でした。戦国期の長宗我部氏は、競合する周辺の領主たちによって辛酸を舐めさせられることもしばしばで、さしずめ雌伏の時をこの城で過ごしたと言うところでしょうか。
 岡豊城が築かれたのは、13世紀から14世紀にかけての時期だったと考えられています。元をただせば信濃秦氏の系譜に連なると言う長宗我部氏は、鎌倉時代に地頭として土佐に赴任してきたとされていますが、それを踏まえれば、長宗我部氏の土佐土着からさほど時を置かない頃に、岡豊城は築かれたことになります。

■落城と当主の死

 南国朝の動乱期を経て、応仁の乱が勃発し、戦国の世がやってくる頃、土佐国内では中村城の一条氏の勢力が優越していました。その他に土佐国内を見渡せば、安芸氏、香宗我部氏、本山氏、吉良氏、大平氏、津野氏に加えて長宗我部氏という七氏の有力豪族が割拠していましたが、長宗我部氏十六代文兼は、一条氏と良好な関係を築き、さらには土佐の守護であった細川氏の後ろ盾も得、まずは磐石の体勢を確保しました。しかし後継者に恵まれず、家中の混乱を招き、伸び悩みます。
 こうした中登場したのが十九代兼序でしたが、細川氏の柱石たる細川政元が、家督争いの混乱の末に暗殺されてしまったことで、その命運は暗転します。永正5年(1508)、「出る杭は打たれる」の例えどおり、前述の本山氏が、同じく前述した吉良氏、大平氏に加えて山田氏をも糾合して、岡豊城を包囲しました。武運拙く城は落城、兼序は自刃して果てました。長宗我部氏の流れは断たれたかに見えました。

■国親の帰還

 しかし、岡豊落城に先立ち、兼序は一子・千雄丸を、交誼のあった一条房家の下へ落ち延びさせるのに成功していました。これが、後の長宗我部国親です。房家の庇護の下元服した国親は、房家の仲介により、本山氏らから旧領を返還され、岡豊城への復帰を果たしました。
 雪辱と亡父の敵討ちに燃える国親は、しばらくの間領内を富ませ兵を養った後、近在の領主天竺氏を討ったのを皮切りに勢力を拡大し、怨敵の一角である山田氏の打倒も果たしました。やがて、永正5年における岡豊城攻囲の首謀者である本山氏との対決に臨む事になりますが、その道半ばの永禄3年(1560)、病に倒れ、その志は息子元親に受け継がれていきました。やがて元親は、本山氏をはじめ、周辺の領主を切り従え、土佐国外に打って出るまでになります。
 元親は、豊臣秀吉による天下統一が成し遂げられた翌年の天正19年(1591)、居城を浦戸城に移しました。奇しくも浦戸城は、本山氏の砦の故地で、若き日の元親が父国親の采配の下、初陣の名乗りを上げた戦いの舞台となった場所でした。

■香長平野を見下ろす山城

 一般に香長平野を見下ろす城とされることの多い岡豊城ですが、独立丘と言うよりは四国山地を背負う形になる100m弱の丘陵上に築かれています。いずれにせよ周辺の平野を見下ろす形になっているのは確かで、その展望に恵まれるロケーションの良さから城跡には高知県立歴史民俗資料館が建てられていますが、主だった曲輪はほぼそのまま保存されているようで、堀切や井戸跡、礎石建物跡、復元された土塁、石垣など、戦国山城の遺構として一般的なものは、一通り存在している感じです。
 歴史民俗資料館となった部分がどの程度縄張りに食い込んでいたかですが、中規模程度以上の山城だったようには思えます。建物跡の状況からは二層以上の建物が存在していたと推定されていますが、往時を思い描くには想像を逞しゅうするよりはないのかもしれません。

(2011年06月01日 初掲)





















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