謀将の黒い烏城。
岡山城
所在地
別名
岡山県岡山市北区丸の内2丁目
:金烏城
築城者
築城年
:上神高直
:興国7年(南)/正平元年(南)/貞和2年(北)(1346)


お城スコープ > お城総覧 > 岡山城

■謀将、岡山に入城す

 岡山城の起源は割と古く、最初に築かれたのは南北朝時代の事だったと考えられています。後醍醐天皇派に立って戦った名和長年の一族・上神高直が、岡山駅近くに石山城を築いたと言われます。物の本によれば「岡山放送会館などのある石山の台地」ともありますが、もちろん今ある岡山城の城地からはずいぶんと離れており、個人的には直接的な連続性をイメージしにくいと言うのが本音です。
 戦国期になると、この城にあった金光宗高を宇喜多直家が殺害し、そのまま城に入りました。直家はもともと浦上氏の被官でしたが、同じ浦上家中の政敵を次々と謀殺して成り上がって行った稀代の謀将です。宗高もまた浦上家臣の一人でしたが、当時主家と敵対していた毛利氏との内通をでっち上げられ、そのまま殺害されたものです。直家は、備前支配のために好適の地だった岡山の地を虎視眈々と狙っていたのでした。
 岡山入城の事実に象徴されるように着々と勢力の拡大を進めた直家は、ついに主君である浦上宗景との対立を決定的なものにしますが、毛利氏と結んでこれを放逐します。やがて織田氏による中国攻略戦が始まると、今度は毛利氏を見限って織田と手を結んでいます。
 自分の栄達のため利用できるものは抜け目なく利用し、邪魔になったら主君をも倒すという手段を選ばぬ生き様は同じく謀将の名をほしいままにする松永弾正久秀を彷彿とさせますが、直家の方はさらに冷徹さを帯びているような気もします。
 

■宇喜多氏による街づくり

 直家は、岡山城に入ると間もなく自分が思い描いて来た町をこの地に造り始めました。城の拡張を手始めに、寺社や市など昔からあった町の機能を移転・整理し、本格的な城下町の造営を推し進めました。子の秀家の代に変わっても岡山の町づくりは続き、豊臣秀吉の指導により現在も市内を流れる旭川の流路を変更したり、かなり大掛かりな土木工事を行ったようです。さらには古くからの山陽道の道筋を変更して岡山の町を通るようにし、領内の有力商人を城下に集め、酒造に関しては岡山城下に限って許可するなど、ソフト・ハードの両面から岡山の町に繁栄をもたらす政策を施しました。
 もちろんこれらに平行して岡山城の改修も続けられ、一説に安土城に似せたものとも言われる天守が築かれました。城の完成は、天正17年(1589)であるとか、慶長2年(1597)と言われています。
 

■小早川氏時代を経て池田氏の統治へ

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが勃発しました。豊臣政権下五大老の一人であり、六十万石にも届こうかと言う領国の太守となっていた秀家は、西軍の有力大名として戦いに参加しますが、周知の通りこの戦いは徳川家康率いる東軍の勝利に終わり、所領を没収された秀家は八丈島に配流となります。そのまま明暦元年(1655)に83歳という皮肉なまでの長寿を全うしました。
 皮肉と言えば、秀家に代わって岡山の地を拝領したのは東軍に寝返って五十二万石を手に入れた小早川秀秋でした。しかし秀秋はわずか2年のうちに没し、小早川氏も無嗣断絶となります。今度は慶長8年(1603)に姫路城主池田輝政次男・忠継が二十八万石で入城してきます。以降は播磨池田氏の支藩のような扱いとなり、途中で系統の入れ替わりはあるものの池田氏系の城主によって治められ、明治維新を迎えました。ちなみに「烏城」という別名は、池田宗家の居城で、地理的にも隣の城である姫路城の別称「白鷺城」との対比です。
 明治以降に残った天守、月見櫓、西手櫓、石山門は国宝の指定を受けていましたが戦災により天守と石山門を焼失しました。現在の天守は昭和41年に再建されたものです。
 なお旭川の対岸には金沢兼六園・水戸偕楽園と並ぶ日本三名園の一つ、後楽園があります。私事ながら高校の修学旅行で行ったはずなのですが、中の記憶がまったくありません。一般観光向けには岡山城とセットでどうぞ。
 

(2008年03月01日 初掲)





















戻る
TOP