島津も手を焼く天下の嶮城。
岡城
所在地
別名
大分県竹田市竹田
:臥牛城
築城者
築城年
:緒方惟栄
:元暦2年/文治元年(1185)


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■荒城の月

 岡城は、滝廉太郎の「荒城の月」を生んだ城として知られています。この曲のモデルになったと言われる古城は全国にいくつかありますが、岡城はその中でも特に有名なものの一つで、それを抜きにしても古くから名城として知られていました。最近ではその写真がJRのフルムーン夫婦グリーンパスのポスターにも使われたりしていて、それが岡城のものであるとは知らないうちに、その高石垣の写真を目にしている人も多いかもしれません。
 城の歴史は12世紀末の文治元年(1185)に緒方惟栄(これよし)の築城により始まったと考えられています。この話については少々不確かな部分もあり、確実な伝承となると、もう少し歴史が下った建武年間に、志賀氏の居城となる時期を待たなければなりません。この段階でまず大掛かりな修築が行われ、現在の本丸が築かれたとされています。

■志賀親次の奮戦

 岡城が特に史上注目を浴びたのは、天正14年(1586)に島津氏の大軍を迎え撃ったときのことです。三万五千の島津軍に対し、城中に籠もったのは大友氏に仕えた志賀親次以下一千の兵。日向耳川で大友氏の主力を打ち破り、肥前沖田畷では龍造寺隆信をも屠り、今や九州全土を席巻する勢いの島津軍を前に城兵の命運も窮まったかに思われましたが、若年ながら武勇に秀でた親次は良く戦い、島津軍を打ち破ること数度。ついに豊臣秀長の援軍の到来まで持ちこたえ、戦後には秀吉からの感状も得ています。同時に岡城も天下の堅城としてその名を知られるに至りました。
 しかし後年、主家の大友氏は文禄の役における失態が元で改易の憂き目に遭い、同時に親次も岡城を去ることになりました。
 現在に残る城跡は、比較的に新しく文禄三年(1594)にこの地へ転封となった中川氏によって改築された時のものです。二の丸・三の丸を整備し大手門の向きを付け替えるなど大規模な工事が行われ、この時岡城は、実質的な近世城郭に生まれ変わりました。以後は江戸時代を通じて中川氏の居城として存続し、明治維新を迎えています。

■雄大な展望の城跡

 現在、岡城址には大規模な石垣が残されています。明治維新後は荒廃するに任せていたのを、昭和に入ってから公園化したものとのこと。
 同地は白滝川と稲葉川に南北を挟まれた天然の要害ですが、周辺地形はわりあいに高低差の少ない、平坦な台地となっており、岡城の主郭部は広大ながら平坦な広がりを見せています。例えば同じく山城の中の名城として知られる但馬の竹田城などに比べれば、立体感は乏しいかもしれません。しかし曲輪の縁は切り立った断崖を高石垣で覆う形になっており、かつて島津の大軍を向こうに回して戦えたのも頷ける縄張りとなっています。
 また、城址から望める遠くの峰峰の姿も実に雄大で、この好展望も岡城の魅力の一つと言えるでしょう。なお、二の丸には岡城にゆかりの滝廉太郎の銅像があります。

(2009年05月31日 初掲)















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