豊後を統べる城。
大分城
所在地
別名
大分県大分市荷揚町
:府内城、荷揚城、白雉城
築城者
築城年
:福原直高
:慶長2年(1597)


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■豊後の中心

 大分城は、慶長2年(1597)に福原直高によって築かれました。当初は城のあった場所の地名から荷落城と呼ばれていましたが、「落」の一字が嫌われ、荷揚城と呼ばれるようになりました。
 城地はもともと豊後の国府が存在していたと考えられている土地で、府内と言う古地名はそこに由来し、長らく豊後を治めていた大友氏も本拠地を府内に置いていましたが、政庁は館程度のもので堅固な城は築いておらず、有事の際には近隣の詰城に籠もっていたようです。島津氏に大敗を喫した戸次川合戦の後などは、実にあっさり府内を放棄しており、同地はあっという間に島津氏に占領されてしまいました。
 後年の大友氏改易後、臼杵城に入った直高は、石田三成の姻戚ということで豊臣政権下においては優遇されており、彼が豊後の中心とも言える府内へ十二万石で「栄転」となったのは、そのあたりの事情によるものと思われます。

■相次ぐ城主の変転

 もちろんその段階の府内には、十万石級の大名が本拠地とするに足るような城がなかったため、新城築城の運びとなったのでした。直高自身、この築城には心に期するものがあったのか、石材などは四国からも運び寄せる力の入れようでしたが、慶長3年には豊臣秀吉が死去し、天下の形勢は三成と対立する徳川家康の方に傾いて行きます。そして親三成閥の直高は、家康の采配で再び臼杵城に戻されています。時に慶長4年、城の概形が完成してから一ヶ月の事でした。
 直高の後、大分城には早川長敏が封じられましたが、直高・長敏の二人ともが関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後豊後南部地方は主を失うことになりました。代わって大分城に入ったのは竹中半兵衛の子・重隆でしたが、その跡を継いだ重興が長崎奉行時代の不始末の責めを負い、結局竹中氏も改易。さらに日根野吉明が入るも無嗣断絶、一時は臼杵城の稲葉氏が城代を勤めています。その跡を襲った松平氏に至ってようやく落ち着き、明治維新まで松平氏の居城として続きました。

■官庁街の城

 県庁所在地で顕著ですが、かつての城跡周辺が現在では官公庁を中心とするオフィス街に変貌し、時には城内にお役所や公共施設が建っている例もしばしばあります。大分城もそのパターンで、現在城跡は大分文化会館とその駐車場になっています。その昔の本丸と西の丸だったところを一つにまとめているようです。曲輪内に入ってしまうと、現代建築が石垣によって囲われているようにさえ見えて、城跡としては少々情緒にかけるうらみは否定できません。風情の無さでは福井城と良い勝負。あまり名誉な勝負ではありませんが、古くから続く政庁としての機能を保存し続けた結果なので、いたしかたがないでしょうか。
 もともと大規模な水堀を備えた城でしたが、こちらは現在ほとんど見る影も無く、内堀が残るばかりとなっています。その他の遺構としては天守台と隅櫓(人質櫓・宗門櫓)が旧状をとどめる他、山里丸と西の丸をつないだ廊下橋が復元されています。

(2009年06月14日 初掲)















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