天下分け目の城。
大垣城
所在地
別名
岐阜県大垣市郭町2丁目
:巨鹿城
築城者
築城年
:宮川安定?
:天文4年(1535)頃


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■沿革

 大垣城は天文4(1535)年に宮川安定が最初に築城したとも、明応9年に竹腰尚綱が築いたとも伝えられています。いずれにせよ、築城当初の大垣城はごく小規模な造りの城だったようですが、天正13年に豊臣秀吉が、一柳直末を大垣城の城主に据え、この時に行われた改修工事により、4層4階建ての天守閣をはじめとする近代城郭の特徴を備えた城に生まれ変わったようです。
 この城は、昭和11年には国宝に指定されていますが、昭和20年の7月29日に空襲に遭い、そのときに焼失しています。現在この場所に建っている天守閣は、昭和34年に竣工したものです。建物内部は資料館として整理されており、関が原の合戦に関する資料や、江戸時代の大垣城下に関する資料の展示がされています。「関が原」関連の解説が、石田三成に同情的、徳川家康に対しては手厳しいところが少し気になります。
 

■関ヶ原の戦いと大垣城

 大垣城が歴史上もっとも脚光を浴びたのは、関が原の戦い前後の時期でした。大垣城は関が原の東方10km程のところに位置する城です。
 秀吉の死後、天下の掌握をもくろんで動いていた徳川家康は慶長5(1600)年、親豊臣反徳川の中心人物である石田三成との決戦に臨もうとしていました。しかし、大坂城にこもる三成を攻めるのは豊臣氏に対する明らかな謀反になります。当時、豊臣氏との全面戦争に及ぶのはまだ時期尚早だと判断した家康は、何とかして三成を大坂城からをおびき出し、城の外でこれを破らなければなりませんでした。そこで、会津の上杉景勝に「謀反の疑いあり」として、これを討伐するという触れ込みで兵をまとめ、東へと進軍しました。一方、このときが家康を倒すチャンスだと見た三成もまた、毛利輝元を盟主とする家康討伐の兵をまとめ、家康を追撃する構えを見せます。家康は、自分の企てが図にあたったことを知ると、上杉に対する押さえの兵だけを残し、再び西に向かいます。「上杉討伐」の兵は実のところ三成を倒すための兵力に他なりませんでした。
 三成方西軍は当初、尾張三河の国境付近を家康の東軍との決戦地として考えていました。ところが、東軍の進軍が予想外に早かったため(もちろん、家康にとって西への帰還が当初からの予定事項だったためです)、大垣城を西軍の本拠地としています。
 やがて、東軍が関が原に到着。天下分け目の合戦が始まるのと時を同じくして、大垣城も東軍の猛攻撃にさらされ、関が原決戦終結後に落城しています。
 

■戸田氏鉄と大垣

 大垣城のすぐ近くにたっている戸田氏鉄(うじかね)の像です。正直に言うと彼がどういう人物なのかはよくは分からないのですが、調べてみたところでは大垣藩の中興の祖とでも言うべき人物のようです。業績は治水、新田開発など。
 現在の大垣は、「水の都」として売出しをかけています。それもこれも氏鉄の治水事業あってのものなのでしょうか。そのぐらいの功労者でもなければなかなか銅像など立つものではないと思いますが、やっぱり詳しいところは分かりません。
 大垣城は桜の名所として知られていますが、個人的にそれ以外のシーズンだと、単体では力不足感があります。大垣にはこの他、奥の細道むすびの地としても知られています。関ヶ原も含めたいくつかの観光スポットをめぐるコースの中に大垣城を組み込むと良いでしょう。
 

(2008年03月01日 初掲)















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