都城ではなくとも。
御土居
所在地
別名
京都府京都市北区大宮土居町
:なし
築城者
築城年
:豊臣秀吉
:天正19年(1591)


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■都の土塁

 御土居とは、豊臣秀吉が京都の周囲にめぐらせた防塁のことです。都市をまるごと城壁で囲い込む手法は、中国では伝統的に行われてきたもので、ひるがえって本邦では、ほかならぬ秀吉自身の城づくり・まちづくりにおいて、「惣構え」の名でしばしば採用されています。もっとも、秀吉がこの都市防御機構に特に関心を示すようになったのは、既にこれを実践していた小田原北条氏の小田原城を攻めて以来のことだったと言われています。
 御土居の実態は、物々しく城壁を備えたものではなく、平たく言えば土塁と空堀の複合体でした。一般には都を守るための防塁と見なされることもしばしばですが、並みの城に見られるような建造物は備えなかったため、いわゆる城郭遺構とは若干趣を異にし、城郭研究の分野からは城の仲間とはみなされないことが多いようです。
 ともあれ、これが京都の街のぐるりを取り囲んでいました。総延長は22劼曚匹箸気譴討い泙后実際は南北に長い長方形をしていたのですが、直感的にとらえて5匯擁の範囲内を囲う土塁を、長いと見るか、短いと見るかは微妙なところです。とにかく、応仁の乱でいったん焼け野原となり、信長、秀吉の為政を経て復興した京都の街は、少なくとも今よりはずっと小さく、それまではある種放縦に広がっていた町並みは、この御土居の範囲内に凝集されました。その意味で、御土居は洛中・洛外を厳格に区別するための境界だったとも言われています。ちなみにこの際、古くから衰退が始まっていた右京の町は、完全に洛外に締め出されることとなりました。
 当然、現在の京都市街は、当時よりずっと拡大しています。御土居の北のラインは概ね鷹ヶ峯近傍にあたり、これより北は山に突き当たるのみなので、現在の市街地と一致するとみなしてよいでしょう。しかし南は東寺から京都駅、東は河原町通、西は西院付近から北野天満宮や金閣寺などの間を縫う西大路に沿ったラインが、かつて御土居のあった場所だと伝えられています。当然、市街化に伴ってその遺構の大半は破壊されており、市内の要所要所に若干の痕跡が残されていたり、石碑が立っていたりするだけになっています。

■北区大宮

 北区玄琢付近に残された御土居跡は規模が大きく、ほぼ手つかずの状態で保存されています。
 この地域への交通の便は、他の観光エリアと比べて良いとは言えず、それなりに苦労してたどり着いた現場付近は、今ではすっかり普通の住宅地となっていました。しかし、くだんの御土居跡は、現在でも一目見てそれとわかる明瞭な痕跡を残しています。土饅頭の親玉と言うか、小河川の堤くらいのものを想像していたのに、現地で見てみると、厚みと言い周辺との高低差と言い、予想していたものより二回りほどは大きなものでした。惜しむらくは、その周囲をがっちりとネットフェンスでガードされていて間近まで寄れないことですが、このくらいしないと史跡としての保存がままならないと言うことなのでしょう。計算上1日に400mが築かれていたと言う計算になるそれは、重機も何もなかった時代の産物にしては、あまりにも立派なものでした。

■上京区北野

 御土居は、有名な北野天満宮の敷地西側にも残されています。国史跡でありながら、同神社の管理地となっているため、普段は部外者が立ち入れる場所とはなっていません。しかし、紅葉のシーズンに限っては紅葉の名所「もみじ苑」として一般に公開され、御土居の上や直下を散策できるようになるようです。
 間近に近づける分、玄琢の御土居以上に大きなものであることが実感できます。ここの御土居は紙屋川の流れを眼下に見下ろすような形となっていますが、堀を兼ねたものだったのでしょうか。天満宮の境内側からだとほとんど登っている感じはないのですが、川によって低く穿たれた地形との対比だと、余計に高低差を体感することになります。
 ちなみに、ここで見られるのは単なる大きな土塁ではなく、悪水抜きのための切石組暗渠の遺構が残されています。芸が細かいとも言うのか、こうした土木技術は、築城の名手たる秀吉の真骨頂に通じるものがあるのでしょう。

(2016年12月01日 初掲)





















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