関東の雄・北条氏が築いた戦国屈指の巨城。
小田原城
所在地
別名
神奈川県小田原市城内
:なし
築城者
築城年
:小早川氏
:応永24年(1417)


お城スコープ > お城総覧 > 小田原城

■戦国屈指の堅城

 豊臣秀吉の天下統一事業に、最後まで頑強に抵抗した関東の雄、後北条氏の居城・小田原城です。現在は本丸が再建されています。何の因果か元日に訪れたため、中を見ることが出来ませんでした。よって内部の様子は不明。
 小田原城周辺は公園として整備されており、本丸近くには動物園があります。象とかがいます。
 後北条氏第一代・早雲のときに奪取し、その子である後北条氏二代・氏綱の時からは北条氏の居城となったこの城を、代々の当主が改修・拡張し後の天下屈指の堅城に仕立て上げました。
 この城は街ひとつを城壁で囲ってしまったという、当時の日本国内でも有数の大規模な城でした。かつてこの城を攻めた武田信玄や上杉謙信も、結局手を出さないまま引き上げて行ったため、北条氏側に慢心が生じたのでしょう。結果的にそのことが、自己過信と秀吉の過小評価につながり、秀吉に臣従する機会を失わせ、北条氏は途絶えることになりました。
 なお、城内に街を持つ「総構え」の機構は、結果的にはこの城を攻め落とした秀吉にとっても注目に値するものだったらしく、後に自身の大坂城にも総構えを作らせています。
 

■北条氏以後

 北条氏が滅亡して後、家康は、秀吉から旧領を捨てて北条氏の遺領である関東一円に移るように指示されます。その際、家康は小田原城を改修して住もうと考えていたようですが、秀吉の薦めで江戸に住むことになりました。
 秀吉側にしてみれば、小牧長久手合戦で屈服させることが出来なかった傑物を、この堅城に住まわせることに危機感を感じての提言だったのでしょう。
 家康もここで秀吉の言葉に刃向かうことも出来ず、当時ほとんど未開の原野だった江戸に街を作り始めたわけですが、世の中は何が幸いするものかはわからず、日本最大の平野である関東平野の一角で造営が始まった街は、その後数百年を経て世界有数の大都市となりました。
 もし家康が小田原を居城としたら・・・・・・。その後の日本は少なからず変わっていたような気がします。
 

■「北条早雲」

 写真は城から程近いJR小田原駅前に建つ北条早雲の銅像です。長らく「氏素性のはっきりしない素浪人」とされていた早雲の前半生ですが、最近の研究によると、どうやら備中国(岡山県)荏原荘の高越城主・伊勢盛定の次男だったのではないかということになっています。父は将軍の申次衆を務め、盛時(早雲の本名。従来「伊勢新九郎長氏」として有名)もこの任についた事があるようです。種を明かしてしまえばこの伊勢氏、正真正銘平氏の流れで、成り上がり者の代表格のように言われていた早雲盛時も、実はいいとこの出だったというわけです。よくよく考えてみれば早雲の妹の嫁ぎ先は名族中の名族である今川氏。身元の不確かな女性が輿入れできるような家柄ではなく、早雲の正体は至極常識的なところに落ち着いたと言うのが妥当な評価なのかもしれません。
 なお、「早雲」という有名な名前も言ってみれば後付のようなもので、前半生に関する研究が進んだとは言っても、鵺的な人物であるのは相変わらずなようです。

(2008年03月01日 初掲)















戻る
TOP