強国の狭間に生きた浅井氏3代の居城。
小谷城
所在地
別名
滋賀県長浜市湖北町伊部
:なし
築城者
築城年
:浅井亮政
:永正13年(1516)


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■日本五大山城

 小谷城は永正13年(1516)に、浅井亮政によって築かれました。標高300mを超える小谷山にあったこの城は典型的な山城であり、江戸時代以降も存続していた山城の代表格「日本3大山城」に対し、戦国期にその役割を終えた山城を選りすぐった「日本五大山城」の一つにも数えられています。
 城の主要な部分は尾根筋に築かれていましたが、遺構はほぼ全山に残っているといっても良いでしょう。しかし、私は時間の都合で登れるところまで車で登りました。城の心臓部である本丸跡まで片道約10分、小谷城の最奥部山王丸まで約20分というところまでは車で進めます。
 電車利用の場合だと、最寄り駅は北陸本線川毛駅になります。駅前に浅井長政と夫人お市の方の像がありますが、ここから小谷城までのアクセスは非常に不便で、さらに川毛駅停車の電車の本数自体も非常に少ないため、可能であれば車での訪問が便利でしょう。
 麓から徒歩で登るか、山腹まで車で登るかはお好み次第ですが、お城好きならば、一日仕事になっても最初から自分の足で登って損は無いほど見所の多いお城です。また、山上からの展望にも優れているため、季節がよければハイキングコースにも最適です。なお、隣にある朝倉氏の大嶽城跡まで尾根続きになっているようです。小谷城付近にはカモシカを熊と間違わないように注意を呼びかける看板がありますが、大嶽城跡まで向かう場合はあまり登山道を外れて歩くと、本物の熊に出会うこともあるようです。
 

■城と石垣

 この城が築かれた永正13年は、100年余り続いた戦国時代のちょうど半ばごろでした。現在まで遺構が残っている城の中では、比較的古株の部類に入ります。本丸付近にある石垣などは、後の時代に比べるとまだずいぶん荒削り、というより自然石をほぼそのまま積み上げていることからもそれが伺われます。典型的な野面積みの石垣です。小谷城址に高石垣はなく、人の身長より一回りか二回り程度が積み上げの限界といった印象。さらに高い石垣を築けるようになるまでには、まだしばらくの時を待たなければなりませんでした。
 戦国時代は破壊の時代でしたが、他方で軍事技術を中心とした様々な技術が発展した時代でもありました。城郭をはじめとする建築技術も時を追うごとに向上していきました。同じ滋賀県内にある安土城跡の石垣と比べてみると、小谷城から安土城までの60年ほどの間に、どの程度の技術革新があったか分かりやすいと思います。
 

■山城の時代の終焉

 小谷城は戦国浅井氏3代の居城でしたが、亮政の孫にあたる長政の時代に織田信長によって滅ぼされています。左の写真は、本丸直下にある浅井家重臣赤井氏屋敷跡です。非常に分かりにくいですが、画面中央よりやや左寄りに「浅井長政公自刃之地」の小さな石碑が建っています。
 天正元(1573)年、小谷城は羽柴秀吉らの活躍によって陥落し、秀吉が北近江の地に封じられました。しかし秀吉は小谷城を捨て、琵琶湖畔の今浜(今の長浜)に新たに居城を築かせました。城が戦時の拠点としてだけではなく、平時の執政府として重視されるようになりつつあった時代の変革を象徴する出来事でした。一面では、築城技術の向上により要害堅固な山上でなくとも堅牢な城を築けるようになった影響もあるのかもしれません。
 

(2008年03月01日 初掲)















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