松平元康の大高城兵糧入れと桶狭間の戦い。
大高城
所在地
別名
愛知県名古屋市緑区大高町
:なし
築城者
築城年
:花井備中守
:永正年間(1504〜1521)


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■今川義元、起つ

 大高城は現在の名古屋市緑区、市内南部にあった城でした。周囲の平地から一段高くなった丘(あるいは小山)の上の城だったようです。この城は、今川義元の上洛戦と言われる戦いで、今川軍が尾張に侵攻する際の前線基地にされています。
 現在の大高城址は、丘の上に上る道すがらに石碑が建てられている以外、目立った城郭建築・構造物は残っていません。強いて言うならいくつかの削平地らしき箇所がある程度です。本丸跡らしき場所はかなり大きな平地で、現在では芝の敷き詰められた広場になっています。
 大高城周辺は、普通車1台が通るとほぼ一杯になるような、幅の狭い入り組んだ路地となっています。古い独特の味わいがある街並ですが、車で出かけると通行が困難ですし、適当な駐車場も確保できませんので、これはやめておいた方が良いかもしれません。
 

■松平元康の殊勲

 永禄3年(1560)。駿河の今川義元は三万以上の大軍を率いて尾張へと攻め込みました。今川軍と織田軍の兵力差は圧倒的でしたが、大高城はすでに織田軍の勢力範囲内の城で、大兵力を擁する今川軍にとっても絶対安全圏ではありませんでした。若年の松平元康(後の徳川家康)は、敵地の只中にあるこの城に兵糧を運び入れる任についています。古来戦争において敵の補給を立つことは戦法上当然の行動でした。このときの織田軍もまた、元康の大高城兵糧入れを妨害しています。大名嫡男の初陣は多分に通過儀礼的なもので、勝ちを拾うだけの戦を初陣に選ぶのが慣例化していました。初陣以後も比較的安全な任務に就いてある種の戦術見習期間を過ごす事が珍しくありませんでしたが、元康は早い段階から難度の高いもの作戦をこなしていたようです。このあたりにも、今川家の属国だった松平家の立場がうかがえます。
 結局元康は機知をもって大高城入城を果たしますが、在城中に義元討ち死にの報に遭います。そしてこの後、今川氏の城代が放棄した古巣岡崎城への復帰を果たしました。
 

■桶狭間の戦い

 元康が大高城に入っていた頃、義元も大高城方面を目指して軍を進めていたようですが、城の南東2kmほどの位置にあった田楽狭間で織田信長率いる織田軍の攻撃を受けて討ち死にしました。世に言う桶狭間の戦いです。
 この戦いの後、元康が三河で独立し、信長と結んだため、尾張と三河の国境近くにあるこの城にはさしたる利用価値が無くなり、廃城となりました。左上の写真は、大高城址から桶狭間方面を撮影したものです。写真では分かりづらいですが、桶狭間方向は小高い丘となっています。桶狭間はこの丘の向こうにあります。
 なお、義元討ち死にの地は現在小さな公園として整備されていて、その一角に「今川義元戦死之地」の石碑などがあります。

(2008年03月01日 初掲)















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