大隈の戦国大名・肝付氏の本城。
大隈高山城
所在地
別名
鹿児島県肝属郡肝付町新富
:肝付城、山之城
築城者
築城年
:肝付氏
:12世紀


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■二家の古豪

 薩摩一国の統一は、島津氏戦国大名化の総仕上げとなるものでしたが、その先に控える大願とも言えるものが、三州統一でした。三州とはすなはち、薩摩・大隅・日向の三ヶ国のことを意味します。初代忠久は、源頼朝によって取り立てられ、三国守護に任じられましたが、頼朝の死後、源氏の直系と北条氏の間に軋轢が生じると、親頼朝、すなはち親源氏であった忠久は、政変の中で大隅と日向の守護職を失うことになりました。島津氏が三ヶ国の守護であった時期は忠久一代のことであったとは言え、その座の奪還は、忠久の末裔にとっても悲願となっていました。
 一方、戦国時代の大隅に勢力を誇り、日向の伊東氏とも結んで島津氏の次なる敵となったのが、高山城の肝付氏でした。肝付氏は島津氏の薩摩統一戦にもしばしば介入しており、両者の決戦はいつしか不可避のものとなっていました。

■肝付氏と島津氏

 肝付氏もまた、中世の到来後まもなく、中央から大隅に任官してきた一族で、島津氏との関係は、地縁や血縁の絡み合う複雑なものとなっていました。畢竟、永禄年間以降の両者の争いは、いつしかそうした関係の精算とも言える様相を呈していきました。
 当初は、大隅への侵攻を進める島津氏に対し、地の利のあった肝付氏がかえって優勢に戦いを進める展開を見せましたが、島津氏の反攻に遭って本城である高山城が直接攻勢にさらされるに至り、時を同じくして、肝付氏の最大版図を築いた勇将・兼続が死ぬと、肝付一族は急速にまとまりを欠くようになります。最終的に家系の断絶こそ免れたものの、大名としての実権を失い、島津氏の家臣として存続することになりました。規模壮大を誇った高山城も、肝付氏の一族が島津家臣団に吸収される中の天正8年(1580年)、廃城されるに至ったものと考えられています。
 ちなみに、今回調べものをする中でたまたま見つけた話によると、「ドラえもん」でスネ夫役の声優を務めていた肝付兼太氏は、この肝付氏の子孫なのだそうです。肝付姓に戦国大名肝付氏が通字としていた「兼」の字を名に持っていたので気にはなっていたのですが、本当につながりがあったことには驚きです。

■南九州型の山城

 ほとんど土地鑑のない大隈半島について、何となく高い山はなく、あっても丘陵程度のなだらかな高みが続く地形が広がっているようなイメージを抱いていましたが、高山城周辺はその先入観に反して、わりと本格的な山並みが続く地域です。地図と引き比べてみると、本州最南端となる佐多岬まで、こんな感じの山がちな地形が続くようで、戦国山城を築く立地としては好適だったのではないかと思われます。
 そんな大隈最南部の山岳地帯の入口付近に位置する高山城ですが、実際に現地を訪ねてみると、かなり規模の大きな本格的山城であったことがわかります。構造的には典型的な南九州の城、つまり曲輪の間を深い空堀で穿つとともに、そこを切り通し状の通路として利用するような縄張りとなっています。幹線道路近くに位置しているので、長い山道を歩かなければならないタイプの山城ではありませんが、思いがけず広大な城域を見て回るのに、小一時間ほどがかかりました。
 なお、城跡近くにあった碑によれば、このあたりは自顕流発祥の地なのだそうですが、薩摩藩の剣術として有名な示現流とは、別流派とのことです。

(2013年12月08日 初掲)























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