三者がせめぎ合う要衝の城。
沼田城
所在地
別名
群馬県沼田市西倉内町
:倉内城
築城者
築城年
:沼田景泰
:天文13年(1544)


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■断崖上の城

 赤木山の北西に位置する沼田の街は、利根川の流れによって作り上げられた河岸段丘の地に位置しており、沼田城はその中でも段丘上の高台の端に築かれた城でした。沼田城址は現在、沼田公園となっています。JR上越線沼田駅から城跡を目指そうとする時、前方左手の断崖上に森が生い茂っているのが見えますが、この森が沼田公園の森です。駅と公園の間は、直線距離にすればそれほど離れてはいないものの、高低差はかなりのものとなっており、徒歩移動ではすぐ目の前のように見える目的地にもなかなかたどり着けません。
 沼田城のある段丘は、利根川に合流する薄根川・片品川によっても周囲の土地から切り離されており、戦国の頃ならばまさしく要害の地でした。駅からの徒歩で城を目指せば、この城の要害ぶりも実感として分かろうというもの。まして、現在のように道路網が整備されていたわけではない戦国時代なら、文字通り難攻不落の城だったに違いありません。
 

■三つ巴の戦い

 沼田城はもともと、天文13年(1544)に沼田景泰によって築かれた城でした。当時の関東では小田原北条氏の勢力伸張が目覚しく、天文15年(1546)には川越夜戦で北条に敗れた扇谷上杉氏が滅亡、次いで天文21年(1552)には山内上杉憲政も上野を追われて越後の長尾景虎の元へと落ち延び、それまで上杉氏に従っていた沼田氏は、北条氏に従属せざるを得なくなります。
 しかしそれも束の間、憲政から関東管領職を譲られた長尾景虎こと上杉謙信が関東への侵攻を開始し、沼田城は今度は上杉氏の下に下ります。以後沼田城は謙信による関東遠征の拠点とされますが、これが北条、上杉、そして武田による三すくみの上野争奪戦の始まりとなりました。三氏はそれぞれ、時に同盟し、時に反目し合い、上野の支配権はなかなか確定しませんでしたが、永禄の末から元亀、天正と時を経るにつれ、西上野における武田氏の支配が優越的になって行きます。
 武田氏で信玄が死去し、勝頼に代替わりする頃になると、上野方面の攻略は真田昌幸に任されるようになりました。昌幸は勝頼の要請に応え、沼田城をはじめとする上野の諸城を攻略しますが、やがて主家の武田氏が滅亡。代わって甲信の主になるかと思われた織田信長も本能寺で横死し、上州信州の情勢が混迷を深める中で昌幸は独立大名として存続する道を模索していく事になります。一度は徳川家康に臣従したものの、家康が上野の真田領を北条との取引の材料にしようとした事に反発、沼田地方の帰属は、今度は真田・徳川・北条の間で争われることになります。結局豊臣秀吉の裁定により沼田城は北条氏のものとなり、一方で真田氏による沼田城以外の沼田地方領有が認められますが、今度は北条が真田領(名胡桃城)に対する侵略を開始、これが契機になって後の小田原征伐に発展していきます。
 

■その後の沼田城

 小田原戦後、沼田城には昌幸の長男・信幸(信之)が入ることになります。この時に改修された沼田城は、五層の天守閣を誇る城として天下にその名を知られていたようですが、寿命はそれほど長くはなかったようで、真田氏の改易に伴い、天和元年(1681)には廃城となりました。どうやら後年になって館程度の物は再建されたようです。真田氏の後には本多氏、黒田氏、土岐氏などが入りました。
 廃城から300年以上が経過してしまっているためか、現在の沼田城公園にはめぼしい遺構は存在していません。わずかに石垣などが残され、他には復元された櫓などがある程度です。テニスコードなどが作られているところを見ると、史跡公園というよりは文字通りの市民公園として整備されたものでしょう。一番城跡らしいのは、何よりも断崖上にあるという立地条件なのかもしれません。
 河岸段丘の西端部という場所柄、展望は西側に開けています。この城の西側には前述の名胡桃城・岩櫃城など真田氏にゆかりの城がある他、越後方面からの軍勢に対しても遠目が利いたことでしょう。城から見て北西方面に目を配らなければならなかった北条方にとっては格好の場所だったと思われます。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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