武田信玄最期の城攻めと暗殺伝説。
野田城
所在地
別名
愛知県新城市豊島
:なし
築城者
築城年
:菅沼定則
:永正5年(1508)


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■伊那と三河を結ぶ城

 新城市内を通る国道151号線(旧伊那街道)から脇道に入り、少し進んだ雑木林の中に野田城はありました。
 分類上は平山城に含まれると言う野田城ですが、151号線側から向かった場合は微高地であるという実感がほとんどわきません。南の民家が何件か固まっている集落側から見て初めて、この城が傾斜地の上に立っていたことが分かります。
 現在は、雑多な樹木がうっそうと生い茂る薄暗い林間に、「野田城址」の石碑が立っており、深い掘が残っています。それ以外に城郭を思わせるものはなく、変わりに小さな社があります。木立の中にあって暗いため、むしろ鬼気迫る感さえある社の方が強く印象に残りました。城跡に面する道路に立っている案内看板や、林そのものの広さから、伝承にもあるような小規模な城であった事が伺われます。
 

■武田信玄最期の戦い

 野田城は、元亀4(1573)年に武田信玄によって攻められています。すでに野田城から近い長篠城は武田方に着いており、徳川家の大動脈であった吉田城を武田領の信濃や三河山岳部から牽制する上で、この城を手中に収める事は大きな意味を持っていました。
 野田城攻めに先立つ前年12月に、遠江国三方が原で徳川軍を完膚なきまでに打ちのめしていたため、野田城に救援が送られる事はありえず、この小城は一もみに攻めればあっさり落ちるというのが大方の見方でした。しかし、場内の将兵は思いの外頑強に抵抗し、最終的には金堀人夫衆を地下に潜行させて城の水の手を断つことでこの城を陥落させています。これが信玄最期の戦いとなりました。
 

■暗殺伝説

 野田落城に関しては、信玄の死にまつわる一つの伝説が残されています。野田城に篭城する将兵の中には村松芳休という笛の名手がいて、彼が夜毎吹き鳴らす笛の根は敵軍の総大将である信玄でさえも楽しみにしていたと言います。ある夜、笛の音に誘われた信玄が姿を現したとき、城内から一発の弾丸が放たれました。この弾丸は、武田軍が鉄砲に対する防御のために設置していた竹束を貫通し、背後に控えて笛の音に聞き入っていた信玄に命中し、それが致命傷となって信玄が没したというのです。
 信玄暗殺に関する真偽のほどはわかりません。あるいは徳川方のプロパガンダだったのかもしれませんが、新城市内の宗堅寺には、信玄を狙撃したと伝えられる「信玄砲」が伝えられています。
 

(2008年03月01日 初掲)















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