若狭守護武田氏の山城。
後瀬山城
所在地
別名
福井県小浜市伏原
:なし
築城者
築城年
:武田元光
:大永2年(1522)


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■若狭の武田氏

 後瀬山(のちせやま)城は、若狭の戦国大名であった若狭武田氏が本拠地とした城でした。若狭国そのものがさほど大きな国ではなかったこともありますが、若狭国内では最大規模の山城です。元をたどれば若狭守護であった武田氏、まずは守護職の面目躍如といったところでしょうか。
 もっとも、守護大名だからと言って簡単に戦国大名に転身できたわけではないのが戦国時代の厳しいところで、同族である甲斐武田氏は信虎という辣腕家が出たおかげで戦国大名として勇名をはせる事になったものの、若狭武田氏のルーツにあたる安芸武田氏は、安芸一国守護が分郡守護となった事もあり、最後は被支配層であった毛利氏によって安芸国から追われています。若狭武田氏による若狭の領国経営も決して順風満帆だったとは言えず、反抗的な国人に丹後国一色氏からの圧迫と言う内憂外患に悩まされ続け、越前朝倉氏の援助を受けながら領国の舵取りを行ったものの、八代元明の時代、ついには朝倉氏に併呑される形で、若狭武田氏は滅亡しています。

■若狭支配の拠点

 後瀬山城は、大永2年(1522)、五代武田元光による築城と伝わります。同時期の武田氏は、権勢の最盛期と言うか、頂点を登りきった直後の下り坂が見え始めた時期であったと言われ、若狭国内最大級とされる山城の建造は、むしろ武田氏による領国支配体制の揺らぎを象徴するものであったと見ることも出来ます。
 武田氏の後瀬山在城は朝倉氏滅亡も挟みながら四代続きました。元明は朝倉氏の滅亡後に織田信長に従っていましたが、本能寺の変に絡んで元明が誅殺されています。その後の城は、丹羽長秀、浅野長政、木下勝俊らの支配下に置かれながら関ヶ原合戦後の廃城までの時を過ごしました。

■良好な遺構を残す

 城のある後瀬山は、古くは歌枕でもありました。文化政策にも力を入れていたと思われる武田氏の姿勢との関連は定かではありません。若狭湾に面する標高168mは、決して圧倒的な存在感を有する山体ではありませんが、それでも現地の案内によれば山中に139箇所もの曲輪が設けられていたと言います。
 現在の登山道は、後世になって主郭に建立された愛宕神社への参詣道を基にしたものらしく、必ずしも城郭時代の大手道などを基準にしたものではないため、全ての曲輪を見て回る事は難しいのですが、それでも道すがらに「曲輪群」の立て札を認めることは出来ます。山頂の主郭が近づくと、土塁や石垣なども目に付くようになり、総合的な保存状態はまずまずといったところ。前述の通り、かつて本丸が置かれていたであろう山頂には愛宕神社のお社が建てられており、ここは廃城後にかなり手が加えられたと思われる節があります。石垣などもありますが、おそらくは神社の創建に関連して新しく築かれたものでしょう。
 一部に樹間から若狭湾を望める箇所もありますが、総じて展望は良くありません。

(2009年11月24日 初掲)















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