春風にたなびく楊柳、小早川隆景の山城。
新高山城
所在地
別名
広島県三原市本郷町本郷
:雄高山城
築城者
築城年
:小早川隆景
:天文21年(1552)


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■毛利の徳寿丸、小早川氏に入る

 中国の覇者・毛利元就には多くの子がいましたが、中でも有名なのが、三子教訓状で知られる三人の息子でしょう。嫡男の隆元とそれを支えた二人の弟、いわゆる毛利の両川こと吉川元春と小早川隆景です。元春と隆景は多くの点で対照的な性格の持ち主だったようで、それぞれ寒中に咲く梅、春風になびく楊柳に例えられます。新高山城は、小早川隆景の居城となるべく築かれた城でした。
 話は隆景誕生の頃まで遡ります。後に西国一円を支配する大大名の座にのし上がった毛利氏も、当時は安芸の国人衆の一氏族に過ぎませんでした。強いて言うならば安芸国人連合の代表者的ポジションであったとする研究者もいるようですが、他の国人に対して絶対的優位の立場にあったわけではないようです。出雲の尼子、長門の大内という二大勢力に挟まれた元就は、周辺の国人との間に緊密な関係を築く事にも腐心しなければなりませんでした。元就の正室は吉川国経の娘であり、五女五龍姫は宍戸隆家の室というように縁組により領主間の関係強化を図っています。
 折も折の天文10年(1541)、竹原小早川氏の当主・興景が無嗣のまま病没し、竹原家の嫡流が断絶するという出来事がありました。竹原家郎党は当時八歳だった毛利氏の徳寿丸、つまり隆景を養子にと望みました。当初元就はこの養子話に乗り気ではなかったようですが、毛利氏の後ろ盾になっていた大内義隆の口添えがあり、同13年、隆景は竹原家を相続しました。
 

■両小早川氏の統合、古高山城入城と新高山築城

 それから5年ほど後。今度は小早川氏の本家筋にあたる沼田(ぬた)小早川氏でも跡継ぎ問題が発生しました。沼田家の場合、正統血統こそ途絶えてはいなかったものの跡継ぎである繁平が光を失っていたため、家中を真っ二つにしてのいさかいが発生していました。すなはち序列通り繁平が沼田家を継承するのか、竹原家の隆景が二つの小早川氏を統合するのかという争いです。結局隆景は沼田家をも相続する事になりました。ここにも大内義隆の意志が働いていており、繁平が尼子との内通を疑われて義隆に嫌われたことが響いたようです。隆景は繁平の妹と結婚しました。
 ところで、隆景による両小早川氏の統合が成るより早く、繁平は義隆により本拠地を締め出されていました。その沼田小早川氏の本拠地が、新高山城からは沼田川をはさんで対岸に位置する高山城(古高山城)です。隆景も当初はこの古高山城に入りましたが、それから間もなくの天文21年(1552)、新高山城を築城しました。隆景はそれから10年あまりの間に新高山城の整備を進め、戦国屈指の規模を誇る巨大な山城に仕上げましたが、永禄10年(1567)になると瀬戸内海に面する三原に新たな城を築き、天正元年(1573)にはそちらへ移りました。小早川氏はもともと、瀬戸内海の水運を握る一族でした。新高山城も沼田川によって瀬戸内海に出でるのに都合の良い立地ではありましたが、毛利宗家の発展に伴い、毛利水軍の総帥とも言える立場にあった隆景は、それにふさわしい城を築き、そちらへ移っていくことになったのでしょう。
 

■新高山城散策

 隆景の築いた新高山城址は、JR山陽線の車窓からも見えるように小早川隆景の名と共にその存在を宣伝されており、私も長らく気になっていました。結構目立つ看板ですが、決して誇大広告などではなく標高197メートルの山頂付近にはかなり大きく削平された跡や枡形跡があり、現在も主郭部の遺構を残しています。どうやら削平地は四段に及ぶようです。
 本丸の東端部、沼田川に面した断崖上に大岩が露出しており、ここに櫓を築いて後世の城郭で言う天守台の役割をさせていたと考えられているようです。現在は岩盤上に石仏が並べられていて独特の雰囲気があります。ちょっと物見台替わりには使いにくいですが、さすが眺めは申し分ありません。この山頂の本丸跡に、どの程度の数の訪問者があるのかは定かではありませんが、音声案内機があり、ボタン一つ押すだけで新高山城の壮大さを語ってくれます。ありがたいことに(?)対岸の高山城についても語ってくれます。新高山城もなかなかの山ですが、時間と体力に余裕があったらはしごしておきたいところ。登るのに骨が折れるこの城と、「ニイタカヤマノボレ」の暗号電文の間に何かしらの関係があるのかどうかは寡聞にして知りません。
 城跡にはこの他、小早川氏の菩提寺・匡真寺の跡や大手門跡があり、どうやら三原市の宗光寺の山門が新高山城の大手門だったらしいと考えられています。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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