耳川の戦いの主戦場となった城。
高城
所在地
別名
宮崎県児湯郡木城町大字高城
:なし
築城者
築城年
:未詳
:不明


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■耳川の戦い

 このサイトで九州の戦国時代をひも解くとき、三国鼎立の構図で語ることが多いような気がしますが、このような状態が現出したのはかなり時代が下ってからのことで、実際には、豊前大友氏の一人勝ちのような状態が長く続きました。この状況が覆されるきっかけになったのが、いわゆる耳川の戦いで、薩摩一国を統一した島津氏が、大隈を平らげ、日向の伊東氏をも放逐したことを危険視した大友宗麟は、島津氏の勢いをくじくために日向にまで出馬したのでした。しかしながら大友氏は、この戦いで手痛い敗北を喫したため、日向戦線で島津氏に対向しきれなくなったばかりか、筑肥方面においても龍造寺氏の台頭を抑えきれなくなるという事態を招きます。
 戦いは、時に天正6年(1578)のこと。島津・龍造寺の両氏が大友氏を追い落としにかかるのは織田信長晩年以降の事でした。
 日向高城は、一連の戦いにおける緒戦の舞台となった城であると共に、この紛争を象徴する城と言えます。日向国内だけでも同名の城が複数存在するため、特に新納院高城(にいろいんたかじょう)と呼んで区別されることもあります。

■大友軍の惨敗

 高城の起源ははっきりしませんが、史上確かなところでは、建武年間に島津氏の諸流であった新納氏の居城となったことが知られています。
 戦国時代には、四十八城と言われた伊東氏の支城の一つになりましたが、元亀3年、伊東氏が雪崩式に島津氏に敗北すると、城の支配権も島津氏の手中に移りました。かくて高城は、島津氏と大友氏による決戦の時を迎えることになります。耳川の合戦に際しては、島津家久が城将として入っていました。
 急激に勢力を拡大した島津氏に対し、大友氏の迎撃体制は十分に整っていなかったと言われています。そのために大友家中でも対島津氏戦略を巡って意見の対立が生まれ、まとまりを欠いていました。また、総帥である宗麟が、島津氏を駆逐した日向国に、キリスト教王国の樹立を夢想して戦いに臨んでいたため、麾下の士気は奮わなかったとも言われます。
 ともかく、大友軍の先発隊は、家久以下千五百の兵が立てこもる高城に攻めかかりましたが、城兵の抵抗は根強く、これを攻めあぐねているうちに島津義久率いる島津本軍の到着を許してしまいました。高城との対陣で疲弊していた大友軍は、二方面の敵の相手をしなければならなくなり、これに加えて島津の別働隊の攻撃をも受けたため、総崩れとなりました。宗麟の大友軍本体は、はるか後方の無鹿に陣を敷いていました。すなはち大友軍の兵站は延び切っており、退却にあたっては島津軍の猛追にさらさることになりました。ある者は敵に討ち取られ、ある者は折からの雨で増水していた耳川の渡河で溺死し、夥しい死者を出して敗北しました。主戦場から遠く離れたところを流れる耳川の名が、長らくこの戦いの名として冠されてきたことは、耳川の渡河とそれを巡る戦いが、大友勢にとっていかに過酷な物であったかを物語っています。
 ちなみにこの城は、後年に豊臣秀吉の侵攻を受けた際にも落城せず、島津主家の降伏を待って開城されています。

■城跡と供養塔

 高城は、切原川と小丸川に挟まれる舌状台地の先端部に築かれた城でした。周囲の低平地を見下ろす地形はそのままに、現在は公園となっています。櫓を模した展望台に立つと、要害振りが実感されます。もっとも、尾根続きになっている西側には、現在も何箇所かの堀切跡が存在しているものの、公園駐車場に通じる舗装道路によって、その痕跡は認めづらくなっており、それ以外の目ぼしい遺構も乏しく、城跡としてはいささか地味な部類に入ることは否めません。
 高城を巡る戦いには、前述の通り宗麟は参戦していませんでしたが、その歴史的大敗にちなんで、城地近くの戦没者供養塔には、宗麟原(そうりんばる)供養塔の名があります。供養塔は、天正13年(1585)に島津氏の家臣・山田有信によって建立された物と伝えられています。こちらはこちらで、近年作られたらしいオブジェによって俗化してしまっているような気もしますが、供養塔は、古戦場の歴史を物語る史跡として、今は一つの公園となってしまった高城跡よりも、はるかに厳粛な雰囲気を残しています。

(2012年07月07日 初掲)





















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