「ほんとの空」が見える山城。
二本松城
所在地
別名
福島県二本松市郭内4丁目
:霧ケ峰城、霞ケ城、白旗城
築城者
築城年
:畠山満泰
:応永年間(1394〜1428)


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■人取橋

 安達太良山の山麓、西にその秀峰を望む二本松城は、応永年間に奥州探題畠山満泰が築いたものです。白旗ヶ峰に築かれた山城で、以後畠山氏は代々この城を居城とする事になります。知名度抜群とまでは言えないにせよ、この城をめぐるトピックには事欠きません。
 天正の頃、奥羽の名族を継いだ伊達政宗が、領土拡大の野望に燃えて二本松城を攻めました。攻防戦は籠城側にとって分の悪いもので、城主二本松(畠山)義継は政宗に対し降伏の意を示しました。政宗は当初、二本松氏との徹底抗戦を考えていましたが、父輝宗のとりなしもあり、最終的には和議に応じました。
 ところが、そのことに礼を述べるため輝宗を訪ねた義継は、あろう事か輝宗を人質にとり、二本松城へと引き上げを始めました。変事を知った政宗は義継を追跡しましたが、ついに生きて父を奪還することかなわず、阿武隈川河畔で義継共々、輝宗を射殺せざるを得ませんでした。この一件に怒った政宗は、再度二本松城に猛攻撃を仕掛け、やがて城は落ちました。落城後の二本松城には片倉景綱や伊達成実といった腹心級の家臣が入れられ、後に控える蘆名氏戦に備えました。

■戊辰戦争

 後、豊臣秀吉の奥州仕置きにより、城の帰属は政宗の下を離れ、会津若松城を治めた蒲生氏や上杉氏に引き継がれていくことになります。いずれにせよ、会津若松城の支城という位置付けでした。
 その上杉氏も、関ヶ原の戦いにおいては徳川家康に敵対し、戦後は出羽米沢城へと減移封となっています。上杉氏の後には再び蒲生氏、さらには加藤嘉明系の加藤氏と続きますが、最後にやって来たのが丹羽光重で、二本松城はこの丹羽氏の時に明治を迎えることになりました。
 しかし、二本松城の場合は平和裏に明治新時代を迎えることはできませんでした。二本松藩が奥羽越列藩同盟に参加したため、城は戊辰戦争の舞台となっています。
 明治元年七月、二本松藩の主力はすでに出撃し、城内には老人と少年ばかりが残される状態となっていました。そこへ新政府軍が攻撃を仕掛け、城は少年兵(二本松少年隊)の文字通り命を懸けた奮戦もむなしく落城しました。城の建物は、この戊辰戦争の時に焼失しています。

■安達太良を望む本丸

 現在では二本松市街の北に、標高345mの山上に残された二本松城の石垣が見えます。白旗ヶ峰の山麓には門や櫓なども復元されていますが、山上主郭部からの雄大な展望は特筆に価します。
 高村光太郎の「智恵子抄」に収められた詩の一編に、「あどけない話」というのがあります。
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。

 二本松城跡の本丸からは、二本松の町の北部はもちろんのこと、西の安達太良山も良く見えます。ここから見える空が、智恵子の言った「ほんとの空」なのでしょう。城代の居館があった新城館跡には、同じく「智恵子抄」の一編である「樹下の二人」の一部を刻んだ「あれが安達太良山 あの光るのが阿武隈川」の詩碑があり、光太郎や智恵子とも少なからず縁のある場所となっています。

(2009年06月28日 初掲)





























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