南朝方、東北の「根城」。
根城
所在地
別名
青森県八戸市大字根城
:なし
築城者
築城年
:南部師行
:元弘4年(南)/建武元年/正慶3年(北)(1334)


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■根城とは

 「根城」と言う単語は、今日では「何某の根城」といった具合に、日常の言葉の中に取り込まれていますが、元来はれっきとした城郭用語でした。「日本城郭辞典」によれば、「城を本城、支城に分けると、一定地域内の本城にあたる城を根城と言い、根城の本城が大根城となる」と説明されています。ちなみに、中世城郭の中には、後世で言う本丸を「実城」と呼称していたものもあり(坂戸城など)、何となく城の各部の成り立ちを樹木に見立てる風潮が存在していたことを示しているようです。
 やや脱線しましたが、青森県八戸市にあった根城(ねじょう)も、おそらく本来は上述したような意味で「根城(ねじろ)」と呼ばれていたものが、当地の地名へと変化していった一例とも思えます。
 現在の根城跡では、近世城館とは趣が異なりますが、南北朝時代に最盛期を迎えた中世城館の遺構が、根城の広場として整備されており、近年では日本名城百選の一つにも選ばれました。

■南朝方の根本

 根城を築いたのは、南北朝時代の武将である南部師行と伝えられています。建武の新政の折、陸奥国には後醍醐天皇の皇子である義良親王と、これを奉じる北畠顕家が入りました。都から遠く、その領域も広大な陸奥国にあっては、ある種の独立小国家的な領国経営が行われましたが、師行もまた、これを支える部将の一人として、その拠点となる城を築いたのでした。
 一説に「根城」の名は、一地方の中枢としてのみならず、南北朝動乱期における南朝方の根本としての意味が込められていたと言います。しかしながら、顕家・師行ともに、北朝方に敗れ、討ち死にしており、以後は南朝の衰退もあって、根城南部氏は振るわず、後には八戸氏と名を変え、一地方領主として存続していくことになりました。
 戦国時代になると、三戸城に戦国大名南部氏が立ちますが、根城南部氏は、その麾下となりました。根城は、江戸時代初頭においても、南部藩の属藩の城として存続しましたが、寛永4年(1627)南部藩内における領地替えにおいて、城主八戸氏は根城を去り、この時を以って廃城となりました。

■北東北城郭の地域性と時代性

 根城跡は、国指定の史跡です。現在は、根城の広場として、安土桃山時代の状態を想定した復元整備が行われています。建造物としては、主殿や工房などが復元されています。
 根城そのものは河岸段丘上の微高地に築かれており、御殿など城の中枢に相当する建物は、一段高いところに築かれていたようです。広場に入ると、まず高台上の中世城館が見えてきます。周囲は板塀と木柵により囲われ、要所は堀によって区画されていますが、石垣は見当たらず、関東以西における同時代の城郭建築ほどの物々しさはなく、随分趣が異なります。戦国期に見られた、詰城を別に備えた領主の居館と言うのが、まさにそれに近い雰囲気を持っていたのでしょう。安土桃山時代の城の全国水準から見て、明らかに古色の目立つ構えと言うことになるでしょうが、このあたりが中世末期東北の、地域性を良く現しているところなのかもしれません。
 なお、館の内部はこの種の復元施設でよく見られるように、当時の武士の生活が再現されています。

(2012年01月24日 初掲)























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