境目七城に数えられる沼城。
撫川城
所在地
別名
岡山県岡山市北区撫川
:なし
築城者
築城年
:未詳
:不明


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■撫川城と庭瀬城

 撫川(なつかわ)城の由来については諸説があります。比較的確からしいところでは、戦国時代に三村氏の属城だったとは伝えられていますが、時代が下ると、備中国は西から勢力を拡大してきた毛利氏の治めるところとなります。はっきり言って小城の部類に入る撫川城が、それでも史上に名をよく残しているのは、いわゆる境目七城の一つに数えられているからでしょう。
 ただし、特によく知られる高松城を筆頭に、冠山城、宮地山城、鴨庄城、日幡城、松島城と続くわけですが、最後の七つの城は、撫川城であったり、至近のところにある庭瀬城であったり、一定しません。何しろ直線距離で百メートルほどしか離れていない二つの城は、往古にはその区別も判然としていなかった可能性もあります。大きな城ならば、一つの城域として縄張りされ得る位置関係であり、あるいはどちらかがどちらかの出丸のような位置づけだったことも考えられるような気がします。関ヶ原の戦い後に、岡山城主だった宇喜多氏の家臣・戸川氏によって庭瀬藩が立藩している関係からか、現在では庭瀬城の名が先行することも多いようですが、城郭遺構にのみ注目するならば、撫川城の方こそが見どころ多き城と言えるでしょう。

■住宅地に残る石垣と水堀

 撫川城および庭瀬城の跡は、岡山市北区に残されています。岡山市で北区と言うと、かなりの部分で山間部を含みますが、撫川城跡が位置するのは、山陽線庭瀬駅からもほど近い場所で、決して山深い場所ではありません。一方で都市部と言うほどでもなく、平城に分類されるこの城の遺構がある程度保存されたのは、近現代の猛烈な都市化にさらされずに済んだ結果なのでしょう。
 低平な地形に築かれた撫川城は、一名で沼城などとも言われます。現在三神社の境内となった城跡に残る遺構の中で、もっとも顕著なものは野面積みの石垣ですが、その周囲には水が引き入れられ、現在も水堀の体を保っています。近くの庭瀬城跡も同様で、こちらもやはり周囲を水堀で囲われています。と言うより、ウェブ地図などで見ると顕著に読み取れるように、この地域は形状から言って明らかに人為的につけられたと思われる水場が、縦横に張り巡らされています。純粋に人が掘削して引き入れられたものと言うより、もともとが低湿な土地で、藩政期以降に都市計画が行われた際、整備された水路なのだと思います。

(2014年11月14日 初掲)















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