小早川氏による筑前統治の城。
名島城
所在地
別名
福岡県福岡市東区名島1丁目
:なし
築城者
築城年
:立花鑑載
:天文年間(1532〜1555)


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■小早川隆景の独立

 小早川隆景は豊臣秀吉から高く評価されていたと伝えられており、秀吉による隆景評はいくつか残されています。どういうわけか他の武将と並び賞されることが多く、徳川家康、黒田如水、直江兼続と同列の器量人だと考えられていたふしがあります。
 前掲三人の中で、隆景と兼続は共に有力大名の家老格の武将でしたが、秀吉はこのような武将を陪臣ではなく独立大名として厚く遇することで主従の離間を狙っていたとも言われます。隆景は、秀吉の四国征伐に従って伊予一国を与えられたのを皮切りに、九州征伐後になると筑前・筑後・肥前に三十万石余の所領を与えられ、完全に独立大名化しました。

■在城二代で転封

 隆景が相続した安芸小早川氏は、水軍との結びつきが強い国人領主でした。そのため隆景が居城とした城は、山城ながら城下を流れる川によって海に通じる新高山城や、瀬戸内の波に洗われる三原城など、水軍の主に相応しい立地の城が主です。そして筑前に領地を得た隆景が居城としたのは、やはり博多湾に面する名島城でした。
 起源としては、立花山城の出城として築かれたのが初出と考えられています。隆景はこれを改修して三十万石の主に相応の海城を築いたのですが、築城は秀吉に命じられたもので、工事そのものにも秀吉の協力があったとも言われています。
 とは言え、隆景と名島城の結びつきはあまり強くなかったのが実情で、築城後も朝鮮役で城を空け、隠居城としては三原城を選んでいます。隆景没後になると、跡継ぎである秀秋は関ヶ原の戦いで東軍に内通し、その勝利に貢献した功により備前岡山に五十万石の大封を得て、筑前を後にしました。代わってこの地に入ったのは黒田氏でしたが、名島城下が拡張の余地に乏しいことを理由に福岡城を築き、名島城は廃城とされました。名島城の遺財は福岡城築城に転用されたと伝えられています。

■寂しげな城跡

 ビッグネームの城ながら、特に目ぼしいトピックの無い名島城。その来歴と同様に現在の城跡も特筆するほどの遺構が残るわけでもなく、ひっそりとした印象が強く残ります。城跡は名島神社と宅地になっており、地形が城跡らしいと言えば言えなくもありませんが、しかしそこが三十万石を超える大名の城だったとは想像しにくいと言うのが実感です。一応天守台の跡らしきものは残されています。
 想像を逞しゅうして、名将の居城だった在りし日を思い浮かべるタイプの城跡なのかもしれません。幸い博多湾方面への眺めは良く、思索に耽るには絶好の環境と言えます。

(2009年06月21日 初掲)















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