天宮と呼ばれた能登の堅城。
七尾城
所在地
別名
石川県七尾市古城町
:松尾城
築城者
築城年
:畠山氏?
:応永35年/正長元年(1428)


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■能登の「天宮」

 石川県七尾市の郊外にあった七尾城は、能登守護職にあった畠山氏代々の居城でした。築城年については詳しいことがわかっていません。典型的な山城であったこの城には、町を城壁で囲い込んだ「惣構え」の機構が小規模ながらも備えられていたようで、七尾城は山上にそそり立つその威容から、「天宮」と呼ばれていました。また、日本五大山城の一つにも数えられています。
 遺構としてはかなり規模の大きな石垣が残されており、この城を訪ねるものを圧倒します。そして、もう一つ。「七尾城址」の碑が立つ本丸跡までたどり着くと、眼下には現在の七尾市外が広がり、さらにその向こうの富山湾までも一望のもとに出来る、絶景の展望スポットでもあります。能登の支配者の城たるに相応しい眺めです。畠山氏代々の当主も同じようにこの場所から下界の風景を眺めていたのでしょう。
 

■謙信対織田軍団

 天正4(1576)年、上杉謙信がこの七尾城を攻めています。謙信でさえもこの城を攻めあぐねたと言い、その要害堅固ぶりを示すエピソードとして後世にまで伝えられています。この時、上杉軍に対して篭城を続ける七尾城には、これを支援する織田信長の増援として、柴田勝家率いる織田氏北陸方面軍が向かっていました。さしもの謙信もそろそろ撤退の頃合かと考え始めた頃、城内に内応者を作ることに成功し、ついにこの城を陥落させています。
 七尾落城を知った勝家は、もはや進軍することに意味がなくなったと判断して退却を開始しましたが、謙信はその隙を見逃しませんでした。直ちに勝家以下の織田軍を追撃し、これを手取川近辺で散々に撃破しました。追い立てられた織田軍の将兵は、たまたま長雨で増水していた手取川の濁流に飲み込まれ、ますます被害を拡大させたと言います。
 織田氏中随一の猛将として鳴らした勝家をあっさりと打ち破り、まさに軍神・上杉謙信の面目躍如と言ったところでしょう。そして、これが謙信と織田軍が直接干戈を交えた最初で最後の戦いとなりました。
 

■落城伝説

 七尾落城については、一つの言い伝えも残されています。
 城を取り囲み兵糧攻めを続けていた謙信は、織田軍が七尾に向かっているとの報を受け、城に対して大掛かりな攻勢を敢行するか否かの判断材料とするため、城内の様子を探ることがありました。水の手も切り、渇きに苦しんでいるはずの城内の厩では、しかし城兵が豊富な水で馬を洗っている様子を見て取ることが出来ました。城内が疲弊しきっている状態であれば、攻撃を仕掛ける心積もりの謙信でしたが、どうやら兵糧攻めの効果は薄かったのではないかと判断しかかりました。ところがその時、どこからともなくやってきたカラスが、馬を洗っていた水をついばむのが見えました。水に見えていたのが実は米であることを見抜いた謙信は、すぐさま城に攻撃を仕掛け、七尾城はついにその攻撃に耐え切れず、陥落したと伝えられています。
 「馬を米で洗う」というある種の計略は篭城時にわりに良く行われていたもののようで、遠目に見ると流れ落ちる米は本当に水のように見えたそうです。なお、七尾城のエピソードに似た伝説を持つ城も他に存在しているため、話そのものは後世に後付されたものなのかもしれません。
 

(2008年03月01日 初掲)















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