黒田官兵衛の水城。
中津城
所在地
別名
大分県中津市二ノ丁
:扇城、扇要城、津城、丸山城
築城者
築城年
:黒田孝高
:天正15年(1587)


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■黒田氏の十七万石

 最近たまたまとあるお笑い番組で語られているのを見かけましたが、豊臣秀吉の懐刀であった黒田官兵衛孝高は、あまりに怜悧だったがため、いつしかその智謀を秀吉に恐れられるようになり、それまでの功績を考えれば不当に小禄の17万石で豊前国に入れられたと言われています。中津城はそのときから築城の始まった城でした。時に天正16年(1588)。
 明晰な頭脳をもって知られる孝高らしく、山国川と大家川という河川に守られた要害の地、さらに瀬戸内の水運を利用した交易にも有利な、多くを見越した選地でしたが、豊前入国後も国人一揆や朝鮮役、さらには関ヶ原の戦いなど戦乱が続いたため、工事は一向に進みませんでした。一方孝高嫡男長政が関ヶ原で功を上げたため、城の完成をついに見ないまま、黒田氏は筑前52万石に加増転封となります。

■細川氏による竣工

 続いて豊前を治めることになったのは、これまた有力大名の細川忠興でした。忠興は当初は中津城を居城としましたが、程なく小倉城を居城と定め、その傍らで中津城の建造も続ける形となりました。そして元和元年(1615)、世に言う一国一城令が出され、いわば支城の位置づけとなっていた中津城の工事は一時中断されることになります。最終的には翌年中に中津城の存続が認められ、城は元和六年にようやく完成を迎えました。紆余曲折の末に竣工した中津城は、忠興の隠居城となりました。
 しかし世に知られているように、細川氏は肥後の殿様です。その国替えは城の完成から十年ほど後のことで、中津城は小笠原氏八万石の城となります。さらにそれから80年を経た享保2年(1717)には、今度は奥平氏が中津城の主になり、この奥平氏の時に明治維新を迎えました。

■昭和築城の余熱

 他地方の人間にしてみれば、中津城は黒田官兵衛の城というイメージが強いのですが、現在の中津城には奥平氏のカラーが強く現れています。最後の城主奥平氏の子孫が音頭を取って、中津城の昭和築城を行っているためです。現在見られる鉄筋コンクリート製の天守は観光を目的として昭和39年に築かれたもので、いわゆる模擬天守と呼ばれるものです。元来中津城に天守閣が存在したかどうかは未だ意見の分かれるところのようですが、少なくとも現在の天守はかつてのそれを復元したものではないのです。
 その中津城天守ですが、近年では所有者である奥平氏の子孫が業績不振を理由に売却の方針を示していることが話題になりました。中津市が買い取ることになるかと思いきや、資金の調達に難があり、話は簡単でない様子。いかにも観光施設然とした中津城天守の内部からは、観光地としての見応えはともかくとして、少なくとも地元の人の城に対する愛情が伝わってきます。良い形での解決が望まれます。
 なお、史跡中津城としての見所は、黒田氏時代と細川氏時代のものが混在する石垣といったところが上げられるでしょうか。戦国史に詳しい人ならば、黒田官兵衛のものにしてはあまりにも小さな城跡に、ある種の感慨を覚えるかもしれません。

(2009年06月16日 初掲)















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