足利将軍家執念の山城。
中尾城
所在地
別名
京都府京都市左京区北白川南ケ原町
:なし
築城者
築城年
:足利義晴
:天文18年(1549)


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■将軍の山城

 足利将軍家の支配基盤は、後の徳川幕府に比べれば遥かに脆弱で、およそ専制君主などと呼べるようなものではありませんでした。せいぜい武家社会の代表者と言ったところで、時には一見家臣筋に当たる諸大名の紛争に巻き込まれ、都落ちの憂き目にさえ遭わされています。歴代将軍にもあまり存在感がなく、一般教養レベルで名前を知られている足利将軍と言えば、初代尊氏、三代義満、八代義政、そして十五代義昭といったところでしょう。
 特に八代の治世に勃発した応仁の乱以降、将軍の権威は文字通り地に落ちたと言っても過言ではありません。末期はいつ有力大名に寝首をかかれ、取って代わられるか戦々恐々としていたのかもしれません。そんな時期に築かれた城が、ここ中尾城です。京の街中にある花の御所および二条御所に暮らしていたイメージの強い足利将軍家が、有事を意識した山城を用意していたことに意外さを感じる部分があります。さらにその城は、新兵器鉄砲の到来を意識したものだったと言います。中世の象徴とも言える足利将軍家と、新しい時代の到来を告げる号砲となった鉄砲の取り合わせが二度意外です。

■都落ちの将軍

 中尾城を築いたのは、十二代将軍足利義晴でした。時に天文18年(1549)のことです。阿波に興って勢力を拡大し、ついには近畿に覇を唱えてるほどに成長した三好長慶の脅威を前に、義晴は都を捨て近江に逃げ延びていました。そして、再び都に返り咲くべく、細川氏や六角氏など、近畿の古豪大名の助力を得てこの城を築いたのでした。つまりいわゆる詰城として築かれたものではなく、将軍の城でありながら上洛のために築かれた城だったのです。
 京都東山の山上に築かれた中尾城はしかし、当時最新鋭の兵器だった鉄砲に対する周到な備えを施した革新的とも言える城だったことが伝えられており、その点では痩せても枯れても将軍の城だったと言えるでしょう。もっとも鉄砲に関する情報が少なかった時期と言うこともあり、その対鉄砲防御機構は後世の常識からは考えられないほど厳重で、必要にして十分という水準を超えたものだったようです。二重の壁の間に石を入れるほどの念の入りようだったのだとか。
 城を築いた義晴は、同時期に11歳の嫡男義輝に将軍職を譲ってその後見人の座に着きましたが、それから5年と経たぬうちの天文19年(1550年)に、近江坂本で死去しました。

■忘れられた城跡

 以後、三好氏一派との戦いは義輝に引き継がれていきます。義輝は末期の足利将軍の中ではずば抜けた武断派で、彼の人生はまさに三好氏との戦いに暮れた感がありますが、その中で中尾城が大きくクローズアップされることはありませんでした。義輝は、二条御所にいるところを、長慶の家臣でありながら主家に代わって台頭してきた松永久秀でと三好三人衆によって襲撃され、殺害されています。義輝の跡を継いだのは久秀らの傀儡将軍・足利義栄であり、織田信長の助力を得てこれを追ったのが、義輝の弟にして室町幕府最後の将軍となった足利義昭でした。
 中尾城は、歴代将軍と何かと縁深い東山、銀閣慈照寺背後の山中にありました。この場所はまた、有名な大文字山と峰続きになっています。訪城したのがちょうど五山の送り火の翌日だったためか、付近には大文字山を目指すハイカーが大勢いましたが、その中に中尾城址を目指す人の姿は見当たりませんでした。現在中尾城址は、案内板の類が満足に設置されていないばかりか、登山道もろくに整備されておらず、雑木林の中の踏み跡をたどりながら山頂付近の主郭部を目指さなければなりません。そうしてたどり着いた先にも、初歩的な土木工事の痕跡が見られる程度で、かなりのお城マニアでなければお勧めできないのが実情です。銀閣寺なり大文字山なりは普通に観光地してるので、そのついでに興味があったら「探検」してみると良いでしょう。

(2008年08月25日 初掲)





















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