中山王国の重要拠点とされた城。
中城城
所在地
別名
沖縄県中頭郡北中城村大城
:なし
築城者
築城年
:不明
:不明


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■琉球の石造文化

 中城城は中城湾を眼下に見下ろす高台の上に位置しています。現在は石垣があるだけの城ですが、世界遺産登録の経緯を受けてか、入場料がいるお城となったようです。ただ、山上に聳える石の要塞と言う雰囲気を漂わせる城は、有料施設として耐え得るだけの訴求力も備えているのかもしれません。首里城に見られたように、琉球文化における石組み技術は高く、やっぱりアーチ門が存在しています。日本式の城で言う曲輪の周囲を石の壁で囲んださまは、むしろ大陸の城に近いと言えるでしょう。
 反面、曲輪の内部には何もありません。より正確に言うと、芝生広場とはなっていますが、かつてそこに存在したであろう建物の痕跡は何も残されていません。これについては、大方の山城にも同様のことが言えますが、発掘調査があまり進んでいないのかもしれません。ただし、ここにも首里城などと同様に御嶽の跡は残っており、戦時拠点と言うよりは祭祀場としての来歴の方を想像しやすいものとなっています。

■沖縄の歴史を俯瞰して

 沖縄の時代区分は独特です。先史時代が長く、農耕が定着して王国が成立したのは、すなはち身分秩序の固定化が進んだのは、グスク時代・三山時代と呼ばれる時期のことです。日本の他地域の時代区分と単純に同期させるのが難しい概念のようですが、グスク時代は概ね12世紀から14世紀にまたがる時代と理解して良さそうです。
 やがて、ある程度の規模と勢力を持った三つの王国が台頭してきました。これが三山時代です。三山時代には、北山、中山、南山と言う三つの王国が起こり、このうち中山が琉球の統一を成し遂げ、良く知られる琉球王国に移行して行きました。首里城には、そこが中山の王府であり、琉球国が中山の系譜であることを示すものがいくつもあります。
 そして、その頃の琉球には、按司と呼ばれる身分階級がありました。時代が下ると国王家の分家筋と同義のものとなって行くようですが、もともとは国王の下に着く地方領主程度の意味もあったのだそうです。中城城は、中山王国の按司である護佐丸(ごさまる)の手によって、おおよそ完成を見たと伝えられています。この護佐丸は、今帰仁城を本拠とする北山王国を滅ぼした中山でも屈指の功臣でしたが、勝連城の按司・阿麻和利(あまわり)によって滅ぼされました。護佐丸、阿麻和利とも、中山王・尚氏の姻戚に当たります。有力領主を懐柔する性格の政略結婚だったと見て良いでしょう。中城城も勝連城も、ともに中山の一翼を担ってはいましたが、もともと二つの城の城主は緊張関係にあり、それが昂じて中山王国内の内ゲバのごとくして衝突したと考えられています。また異説もあり、護佐丸、阿麻和利らの勢力を危険視した尚氏が、謀を巡らせて、ともに討ち滅ぼしたのだとも言われています。
 中城城の築城者は、現在でも明らかになっていませんが、護佐丸がその城主となり、阿麻和利によって攻め落とされたという部分は間違いなさそうで、その後も琉球王国内の重要拠点としての位置づけは変わりませんでした。

(2017年08月12日 初掲)























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