連歌で奪った城。
那古野城
所在地
別名
愛知県名古屋市中区二の丸
:なし
築城者
築城年
:今川氏親
:大永年間(1521〜1528)


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■「なごの」?「なごや」?

 まずはじめにこのお城の呼び名について。「なごやじょう」と読ませる場合と、「なごのじょう」と読ませる場合があります。現在名古屋市には「那古野」と書いて「なごの」と読む町名がありますし、「名古屋」はもちろん「なごや」と読みます。古い人名の読み方は、今に伝わる地名などの読みに従うパターンが一般的ですが、「那古野」に関しては少し話が複雑です。「名古屋」はもちろん「那古野」という旧名の音あっての改名のはずだから「名古屋」と同じく「なごや」と読むのだとも言えますし、全く同じ字をあてて「なごの」と読む土地があるのならそのように読むのが筋、という考え方も当然でしょう。私は「なごやじょう」と呼ぶことにしています(このページについてはファイル管理の都合上、ローマ字表記をnagonoとしていますが)。
 ちなみに名古屋という地名は、豊饒の地を意味する「穣屋(にぎや)」から来ていると考えられています。こういう話には異説の多いことはお断りしておきます。「那古野」が「名古屋」に変わったのは、尾張徳川家の始祖・徳川義直がこの地にやってきた頃からですが、さまざまな字で書き表された「なごや」の地名が「名古屋」の表記で統一されるようになったのは明治に入ってからでした。
 

■信長はどこで生まれた?

 所在地の住所からもわかるとおり、現在の名古屋城内・二の丸庭園付近にあったお城です。庭園入り口付近には、「那古野城址」と書かれた石碑が存在しています。表面は随分と磨耗している感じですが、太平洋戦争時の空襲で削れてしまったもののよう。
 現在、遺構は何一つとして残さていませんが、織田信長は、父信秀が居城としていたここ那古野城内で産声を上げたといわれています。これに関しては異説もあり、那古野以前の信秀の居城、中島郡平和町にあった勝幡城が信長生誕の地であったとする説もあります。信長が生まれたのはちょうど、引越しの時期だったのです。
 

■信秀の知略

 勝幡城主時代の信秀は、尾張守護代の家臣という身分に過ぎませんでした。下克上の野望に燃え、意気盛んな新興勢力であっただろう事は想像に難くありませんが、いかんせんその勢力は弱小でした。そこで信秀は、一般に知られているであろう猛将のイメージからはかけ離れた、奇策をもって那古野城を奪取しました。
 その頃に那古野城主を務めていた今川氏豊は、連歌に傾倒していたと言われています。氏豊は今川義元末弟などと言われていますが、素性には謎の多い人物です。信秀はこの氏豊と親交を結び、彼の連歌仲間となります。最初の頃は足繁く那古野城に通い、氏豊との連歌に興じたと言いますが、やがて夜になると自城に帰らなければならない信秀を慮り、氏豊は那古野城内に信秀のための館を建てました。信秀はこれ幸いとばかりにこの館に改造を施し、そこを足がかりにして那古野城を乗っ取ってしまいました。寝耳に水の氏豊は、ほうほうの体で城を追われていったと伝えられています。
 類似の城盗りが皆無だったわけではないようですが、かなり特殊な「城攻め」だったことは間違いないでしょう。
 

(2008年03月01日 初掲)















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