武田氏滅亡の遠因。三河路の小城。
長篠城
所在地
別名
愛知県新城市長篠
:なし
築城者
築城年
:菅沼元則
:永正5年(1508)


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■武田と徳川の間で揺れた城

 鉄砲三千丁で有名な長篠の戦いで知られるお城です。現在本丸跡は何も残っていませんが、2003年9月時点では堀などの再建が進められているようです。長篠城跡には資料館があり、合戦当時この城の守将だった奥平氏の家宝、血染めの陣太鼓などが収蔵されています。
 この城はもともと、この地域を牛耳っていた土豪、山家三方衆の一である菅沼氏が築いた城です。もともと菅沼氏は今川氏に従属していましたが、桶狭間で今川義元が敗死後は松平元康(後の徳川家康)に従っています。元亀2(1571)年には、武田軍に攻められて落城し、以後しばらくの間は武田氏の配下となっています。
 武田信玄は元亀3年に上洛の軍を起こしていますが、その際に伊那地方と東三河を結ぶ道沿いに位置するこの城を抑えておくことは、徳川氏を牽制する上で非常に重要な意味を持っていました。当時の徳川氏は、遠江の浜松城と三河の岡崎城を両輪として動いており、吉田城(豊橋市)が2城をつなぐターミナルとなっていました。長篠を抑えることは、徳川氏の東三河の拠点であった吉田城(豊橋市)を射程距離内に捕らえ、徳川氏の領国支配体制に楔を打ち込むことを意味しました。
 

■決戦へ

 信玄の病死後、家康は長篠城を奪回し、奥平貞昌をこの城に封じました。そして天正3(1575)年、武田勝頼はこの城を再び手中に収めるべく、一万五千の大軍で長篠城を攻めました。豊川と宇連川を背にした要害堅固のあったこの城は、鳥居強右衛門はじめ城兵の奮戦もあって武田軍の猛攻にも耐え抜きます。そして、城を落とすことができないまま、武田軍は織田徳川連合の援軍三万八千を設楽ヶ原に迎えます。
 長篠城址のすぐ近くにある大通寺には、武田の重臣であった馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、土屋昌次が別れの水盃を交わしたと言う盃井戸の跡が残されています。決戦前夜、最後の軍議の中で決戦回避案を勝頼に退けられた四将は、今生の別れを済ませて死地に赴いたのでした。信房らは信玄逝去の際、追い腹を切ろうとしていたところを高坂昌信(長篠の合戦には従軍せず)から「死ぬほどの覚悟があるなら武田氏のために働いて死ぬべきである」とたしなめられ、思いとどまったと言われています。
 

■武田氏の落日

 この戦いでは、昌景、昌豊、昌次らのほかに原昌胤、真田信綱・昌輝の兄弟、三枝守友ら信玄を支えた武将の多くが討ち死にしています。守友だけは徳川軍の酒井勢から受けた奇襲の中で討ち取られていますが、それ以外の面々は不思議なことに、鉄砲の有効射程距離外で死んでいたと言います。彼らは戦いの勝利など眼中に無く、ただ長篠の戦場を死に場所にすることだけを願っていたのでしょうか。
 次々と伝わってくる宿将討ち死にの報を受け、勝頼はついに全軍の退却を命じます。最後まで生き残っていた馬場信房は、勝頼を逃がすために自らを楯にして激闘を演じ、ついには討ち取られました。信虎・信玄・勝頼の戦国武田氏三代に仕えたこの老将は、最期の瞬間に何を思ったのでしょうか。
 長篠の敗戦を境に、武田氏は凋落の一途をたどります。

(2008年03月01日 初掲)















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