長島一向一揆の根城。
長島城
所在地
別名
三重県桑名市長島町西外面
:なし
築城者
築城年
:伊藤重晴
:文明14年(1482)


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■信長と一向宗

 戦国時代の北勢(伊勢地方北部)には、巨大な勢力を張る大名は存在せず、比較的小規模な土豪が割拠していました。しかし、事実上それらの在地勢力の上位に君臨する存在がありました。その事実上の北勢の盟主が、伊勢長島の名刹・願証寺です。
 願証寺はいわゆる一向宗(浄土真宗)の寺でした。寺を城、そこにいる僧侶を大名、檀家を家臣団に置き換えて考えるならば、願証寺は十万の大兵力を要する規格外の大大名でした。事実、元亀元年(1570)には当時長島城を守っていた滝川一益が一向一揆に城を追われ、以後長島城は一向一揆の根城とされています。
 伊勢はまた、織田信長の地盤である尾張に接する地でもありました。伊藤氏を倒して勢いを増した長島一向一揆はついに尾張に乱入し、小江木城を守っていた信長の弟・織田信與を攻め殺しています。頼みにする肉親を失ったこの時こそが、信長と長島一向一揆の血みどろの戦いの幕が上がった瞬間と言って良いでしょう。
 

■「長島」の水城

 結論から言ってしまえば、たびたび信長に辛酸をなめさせた長島城も、織田軍のたび重なる侵攻の前にはついに敗れ去り、その後は信長の武将・滝川一益の治めるところになりました。さらに時代が下って江戸時代に入ってからも、何度か城主が変わっていますが、元禄15年(1702)から入った増山氏の統治のうちに明治維新を迎えています。
 現在の城跡は長島中部小学校になっており、城の遺構はもちろん、いわゆる「輪中」地帯らしく木曽川他の支流が周囲を駆け巡っていると言うようなこともありません。同じ小学校の敷地の一部に伊勢湾台風遭難者のための慰霊碑が建っているのが、輪中らしいと言えば輪中らしいのかもしれません。往時の記憶をしのぶよすがは、城跡近くの蓮生寺に移築された大手門だけとなっています。なお、この門は城門時代よりも規模を縮小して移築されたようです。
 

■宗教戦争の悲惨

 門主の檄に呼応し、畿内をはじめ北陸、そして伊勢の門徒が一斉に蜂起し、織田軍に対してその牙をむきました。信長は伊勢の一向一揆を鎮圧するために都合三度の攻撃を仕掛けなければなりませんでした。一向一揆は単なる農民一揆とは異なり、本願寺から派遣された坊官により統率されたれっきとした戦闘集団でした。さらに現世的欲求を超越した論理によって行動していたため、その戦いに安易な落としどころは存在しません。敵を絶滅させるか、自身が全滅するか。決着の付け方は二つに一つしかなかったといって良いでしょう。
 長島一向一揆の決着は宗教戦争の陰惨を地で行くような、酸鼻を極めるものでした。一揆との死闘に決着がついた天正2年(1574)の第三次長島攻撃の際、信長は九鬼水軍の大兵力を動員し、兵糧攻めを実行。さしもの一揆軍も餓えには勝てず、多数の餓死者を出した上で信長に降伏しました。しかし、一向宗徒に対する信長の憎しみは深く、逃げ出してきた男女千人を斬殺、さらに砦を取り囲んだ上で中に残っていた門徒二万人を老若男女の別なく焼き殺したと伝えられています。大量虐殺による門徒の「根切り」は北陸戦線の柴田勝家らも行っており、今も昔も泥沼に踏み込んでしまう宗教戦争の難しさを物語っているようです。
 長島一向一揆をまとめた願証寺(写真)には現在、「長島一向一揆殉教之碑」が建てられています。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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