大規模な石塁の残る城。
長岩城
所在地
別名
大分県中津市耶馬溪町川原口
:永岩城
築城者
築城年
:野中重房
:建久9年(1198)


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■豊前の国人領主

 日本中に石垣の名城はいくつかあります。が、同じ石の城でも、石塁の城というのはほとんど聞いたことがありません。ここ長岩城は、その石塁が全山を覆うような、かなり異色の城です。
 長岩城は、日本史上において特別重要な意味を持つ城ではありません。城を築いたのは、豊前守護だった宇都宮信房の弟重房で、建久9年(1198)の築城だと言われています。その後重房は野仲氏を名乗るようになり、野仲氏は豊前で国人領主化して行きます。そして国人領主の習いで、大内氏や大友氏など、その時々に豊前を支配下に置いた大名に従属することになりました。
 ただ戦国末頃の当主であった鎮兼は、大国に付き従い家名を存続させることに汲々とするような性分ではなかったようで、九州北部における毛利氏と大友氏の争いが本格化する時期には毛利氏に味方し、それが露見して大友氏に攻められ、再び従属を余儀なくされるも、大友氏が耳川で島津氏に敗れ、その支配力に陰りが見えてくるようになると、自城周辺を切り従えようとする野心家ぶりを見せています。

■天然の要害

 しかし、戦国の世はすでに終わりに差し掛かっていました。秀吉による九州征伐が完了すると、豊前には秀吉の懐刀であった黒田官兵衛孝高・長政親子が入り、これに反抗した野仲氏は、かえって滅亡の最後を招き入れることになりました。野仲氏が滅んだこの時、長岩城も廃城になったと考えられています。
 黒田氏による攻城時、黒田軍は3500、対する城中には1500余りの兵が籠もっていたと言います。数の上では攻撃側が篭城側の二倍以上に相当するものの、世にこれ以上の兵力差を跳ね返して奮戦した城も多いことを考えれば、案外と簡単に落ちてしまった城と言う気がしないでもありません。相手が悪かったと言うことでしょうか。少々不思議に思えてしまうほど、長岩城は天嶮を利用して築かれていました。
 基本地形は戦国時代も現在も大きく変わっていませんから、長岩城登城はかなり厳しい道のりとなります。ロープにつかまりながらよじ登る急傾斜の斜面もあれば、案内板でさえ「危険道」と記載しているような断崖路もあり、ハイキング気分で登るには少々歯ごたえのある山道です。「危険道」を避けても、曲輪全体の半数以上は見て回れるはずなので、どこまで挑戦するかは体力や山歩きの技術・経験と相談すると良いでしょう。

■石の城

 さて、長岩城と言えば石塁と石積櫓です。もちろん山の斜面を覆ったいわゆる石垣も存在していますが、削平地の縁を防護するように、時には竪堀に並行するように、扁平な石を積み上げて築かれた防壁が山中至るところに存在する様には、他の城跡ではなかなかお目にかかることができません。これは東文台から本丸に向かう道すがらにあるものが最も大規模です。
 石積櫓は、その名の通り石を積み上げて築いた櫓です。谷筋を挟んで本丸とは反対側の山上に存在しています。もちろん近世城郭に見られる櫓のような本格的建造物ではありませんが、通常の石塁よりも高く、馬蹄形を描いて石が積み上げられています。のぞき窓のような穴が開けられているので、しばしば「銃眼のある石積櫓」と呼ばれますが、物の本によれば銃眼から狙い撃ちに出来るのは敵軍による攻撃の恐れが少ない断崖方面らしく、本当に銃眼なのか、そもそも櫓と呼べるだけの役割を果たした構造物だったのかについては疑義もあるようです。しかし真相がどうあれ、一種独特の遺構ですので、見ておいて損はないでしょう。
 ちなみに私は前述した道の悪さと時間不足のため、石積櫓および砲座跡、陣屋のある区画は未訪です。機会があれば再訪したいところ。

(2009年05月26日 初掲)





















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