羽柴秀吉、城持ち大名になる。
長浜城
所在地
別名
滋賀県長浜市公園町
:なし
築城者
築城年
:羽柴秀吉
:天正4年(1576)


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■再建された長浜城

 長浜城はJR北陸本線の長浜駅から目と鼻の距離にある湖畔の城です。天正3(1576)年頃に羽柴秀吉が築いた長浜城は元和元(1615)年の時点で廃城となっており、現在あるのは昭和58年に建造された再建天守です。秀吉が築いた長浜城がどのような外観をしていたかは不明だったため、再建天守は天正期の城郭建築の特徴を想定したもののようです。内部は秀吉時代の資料を中心に、縄文時代以降の湖北地方の歴史を展示した歴史博物館になっています。城内の展示資料には秀吉ファン必見のものが多くあります。
 この地に残っている戦国期の遺構となると少々弱いかもしれません。再建天守のある豊公園の一角、琵琶湖に面した場所には太閤井と呼ばれる井戸の跡があります。秀吉時代をしのばせる遺構は主にこの井戸の跡だけですが、発掘調査では当時の石垣などが見つかっているようです。
 長浜市内はそぞろ歩くには魅力的な町並みで、そのコースの一つとして長浜城を訪ねてみるのが良いかもしれません。湖が近いため?鴨料理でも有名だそうです。
 

■北陸への最終防衛ライン

 天正元(1573)年、上洛の軍を起こした武田信玄がその途上で病を得、ついには信濃国駒場で逝去すると、それまで苦境に立たされていた織田信長は、信玄が残した信長包囲網の各個撃破に着手します。最初に標的にされたのが、織田政権の心臓部に近く、またもっとも弱小であると目された北近江の大名・浅井長政でした。それ以前から織田軍の圧迫を受けていた浅井家はその年の内に居城小谷城に滅んでいます。この浅井氏攻めで功があったのが、織田氏中の出世頭だった木下藤吉郎でした。藤吉郎はその功に報いて浅井氏の旧領を与えられ、ここ長浜の地に城を築き、ついに城持ち大名となりました。そしてこの機に、名を羽柴秀吉と改めています。
 北近江の地は、信長が上洛を企てるにあたって、この地にあった浅井長政に妹お市を嫁がせて味方に引き入れ、地固めをした事からも分かるように、北陸道と中仙道の合流する重要地点でした。特に北陸方面に対しては、敵国攻略の前線基地となりうる場所であると同時に、敵軍勢に対する最終防衛ラインとも言える場所でした。秀吉が長浜に入った直後、朝倉氏は浅井氏の後を追うように滅亡していますが、朝倉氏の背後には北陸路最大の脅威・上杉謙信が控えていました。謙信と織田軍(柴田勝家を総大将とする北陸方面軍)は一度だけ干戈を交えていますが、このときは鎧袖一触、謙信が勝家を蹴散らしています。史実ではこの直後に謙信が倒れますが、もし上杉軍が越前を抜いていた場合、長浜城は織田氏の中枢である安土城を守る最後の砦の一つとなるはずの城でした。この地の城主となった秀吉は、当時すでに織田氏中でそれほどの重きをなす存在となっていたと言えます。
 

■秀吉の像

 長浜城公園には衣冠束帯姿の秀吉像が立っています。おそらく、臣下としては最高位の関白にまで上り詰めた秀吉の姿を現したものでしょう。墨俣城址にも秀吉の像がありますが、こちらもやはり貴族の正装姿。秀吉ゆかりの城というと、あとは大坂城姫路城などが当てはまりますが、その両者では秀吉像は見かけませんでした。もっとも、大阪城に関しては見落としの可能性が極めて高いと思います。
 さてそれ以外となると、秀吉の生家があったと伝えられる名古屋市中村区の中村公園に「日吉丸」時代の像、国道1号線矢作橋に蜂須賀小六との出会いの場面をモチーフにした象が立っていますが、武者姿の秀吉像というのは見た記憶がありません。よほど、高台寺所蔵のあの肖像画のイメージが強いのでしょう。この肖像画ではかなり肩幅を広く描かせていた秀吉ですが、それを元にしたらしい像がいずれも貧弱な体躯に造られているのことに対し、もしかすると歯噛みして悔しがっているかもしれません。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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