前田利家と佐々成政が戦った城。
能登末森城
所在地
別名
石川県羽咋郡宝達志水町南吉田
:なし
築城者
築城年
:未詳
:不明


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■加賀能登の要

 高岡城の項では、かの城が地理的に加賀百万石の要に位置すると言う話が出ましたが、ここ末森城は加賀能登に寄ったもう一つの重心と言えるかもしれません。地元では口能登と呼ばれる能登半島の付け根の地域に位置するこの城は、現地の解説に見られるとおり、能登半島の背骨と言える宝達山系と日本海との間が最も狭くなる場所にあたります。現在も城のある末森山山麓には能登半島の幹線道路である国道159号線が通っていることから、その要衝ぶりが分かり易い形で示されています。なお天守も持たない山城ながら、この国道沿いに「末森城跡」の巨大な看板が立ってもいるため、石川県民の間ではかなりの知名度を誇っているお城であろうことが想像されます。
 末森城は、本能寺の変、そして賤ヶ岳の戦いを経て、同じ柴田勝家の寄騎でありながらついには袂を分かった前田利家と佐々成政が戦った場所として名高い城です。早くから秀吉に恭順の意を示した利家に対し、当初家康と結んでこれに対抗しようとしていた成政は、敵対関係に陥った隣国前田氏の新旧領国をつなぐ車軸の役割を果たすこの城を落としにかかったのでした。

■末森合戦

 城の歴史については未だに不明な点も多く、築城年代や築城者については研究の途上と言った状態です。残された書物には、七尾城にあった能登守護畠山氏の家臣にあたるとされる土肥但馬が天文年間に末森城を根拠にしていたと言う記述が見られるため、この時期には城が存在していたと推測できます。
 ただし、末森城の歴史は先述した末森合戦と切り離して語ることは出来ないようで、城をめぐる詳細な記述が史書の類に見られるのは、まさにこの戦に関連してと言っても過言ではないでしょう。勝家の北陸侵攻後、土肥氏は畠山家臣から織田氏の陪臣へと鞍替えしていましたが、信長の死による織田軍団の崩壊を経験すると、利家の麾下に入ります。そして秀吉に従って旧来の能登に加えて加賀を加増された利家は、前田領国の要にあたるこの城の城代の任に、尾張時代からの家臣であった奥村助右衛門永福を封じました。
 成政が末森城に攻めかかったのは、天正12年(1580)9月の事でした。動員された兵力は一万五千。対する城内には五百人に満たないほどの兵士しかいませんでしたが、大軍を相手に決死の抗戦をしています。一方末森城が強襲されたとの報に接した利家は、援軍を引き連れて搦め手口より入城したと伝えられています。利家の援軍を合わせても、まだ佐々軍の方が数的優位に立っていたと言われますが、それまでの城攻めで予想外に頑強な抵抗に遭っていた佐々軍は、利家の入城を見てついに退却を開始しました。
 かつての僚友同士が血みどろの激戦を繰り広げるに至った心中は、興味を惹かれるところです。

■山城に分け入る

 この末森城、二度目の訪城にして征服がなった因縁の城でもあります。何しろ山城、開館時間を過ぎたと言うような話ではなくて、2007年夏の初回訪問時は熊の目撃報告があったため、立ち入り禁止にされていたのです。城のある末森山は独立峰ではないのでそういうこともあるのかもしれませんが、末森城自体は決して山深いところにあるわけではなく、駐車場・登山道完備のよく整備された城跡です。
 ただしこの登山道が曲者で、車も通れる林道並みの道は、訪問者をスムーズに山頂=本丸まで導いてはくれそうですが、あまりにも一本道で山中に点在する曲輪跡の存在を見落としがちになるため、下手をすれば末森城が大した遺構も残っていない城と言う印象を与えかねません。どうも純粋に大手道を整備したといったようなものではなく、おおよそ城の縄張りは無視しながらひかれた道のような雰囲気です。本来は、ハイキングコースを意図して整えられた道なのかもしれません。山中の各曲輪へは、時折登山道の脇に延びているのが見える踏み跡のような道をたどると良いでしょう。

(2008年12月06日 初掲)





















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