不来方のお城の草に寝ころびて。
盛岡城
所在地
別名
岩手県盛岡市内丸
:不来方城
築城者
築城年
:南部信直
:慶長3年(1598)


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■津軽氏の独立

不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心

 岩手県が生んだ詩人・石川啄木の代表的詩集「一握の砂」。前掲はその中でも特に有名な歌で、国語の教科書にも載っていたりします。授業中、予備知識として「不来方のお城」とは盛岡城のことであると教えられた人もあるのではないでしょうか。
 盛岡城は安土桃山時代も末の慶長3年(1598)に南部信直によって築かれた城でした。南部氏は元来甲斐源氏の流れで、家柄の確かさもあってか、現在の岩手県から青森県に至る一帯を領有し、三戸を拠点としていました。しかし戦国の世にも終わりが見えてきた天正年間になると、一族の内訌を生じて領国の支配体制が緩み、傍流であった大浦為信の独立を許してしまいます。この為信は後に津軽為信を名乗るようになり、弘前城を本拠とした津軽藩の藩祖となりました。
 独立を画策する為信の動きは、天正14年(1586)に豊臣秀吉が発した惣無事令に背く疑いのあるものでしたが、一説によると為信の方が南部宗家よりもわずかに早く、秀吉に取り入ることが出来たため、遅れて使者を立てた南部信直は、為信の独立を容認せざるを得なくなったとも言われています。

■南部藩の新政庁

 一方、秀吉による奥州仕置後もその秩序に従わず、南部氏に敵対を続けていた九戸政実は、謀反人として討伐されるという末路をたどりました。政実の乱鎮圧後、信直は秀吉から、和賀・稗貫・紫波の三郡を与えられています。多分に信直が失った津軽の地の代替という意味を持った知行だと言われていますが、ともかくも北の地を失って南の地を得た南部領は、従前よりも南に営まれることになりました。このような経緯があり、計十万石となった所領を支える拠点として、信直は三戸より南方の盛岡に城を築くことにしました。蒲生氏郷や浅野長政に勧められたものだったとも言われています。信直は盛岡に移って間もなくこの世を去り、城は子の利直の時に完成を見ました。
 盛岡城は北上川と中津川を天然の外堀とする丘陵上に築かれました。蝦夷地防備のため、表高に倍する兵力の動員を命じられた南部藩の台所事情は厳しいものだったと言われ、一部に石垣を設けた以外は土塁を築き、天守台はあったけれども天守閣は頂かないなど、城はどちらかと言うと質素な造りだったと伝わります。当初不来方城と呼ばれていた城地の名が、盛岡と改められたのも、藩の発展を願ってのことだったのでしょう。とは言え、残された石垣の規模は大きく、北東北地方の城としては異彩を放っています。

■文学の生まれた場所

 盛岡城は江戸時代を通じて南部藩の城でしたが、明治維新後は陸軍省の所管となりました。そして明治39年(1906)になると、岩手公園として開園し、今に至っています。冒頭の詩で、盛岡尋常中学校時代の啄木が学校を抜け出して寝転んだのは盛岡城の二の丸だったようで、同じ場所には啄木の歌碑が建立されています。啄木の中学時代はまだ公園ではなかったということになるような雰囲気で、軍の管理地に簡単に入れ込めるのかどうか、そのあたりの事情はよく分かりませんが、何はともあれ歌碑に刻まれた文字は啄木の親友であった金田一京助の手になるものとのこと。
 現在城の周辺はすっかり都市化してしまっていますが、現地の解説にもある通り、啄木の頃なら容易に四囲を見渡せる展望の地だったことでしょう。十五歳の啄木が思索に耽ったのも頷ける、落ち着いた風情のある古城址・盛岡城です。

(2009年05月05日 初掲)





















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