厳島合戦の囮城。
宮尾城
所在地
別名
広島県廿日市市宮島町
:宮ノ尾城
築城者
築城年
:毛利元就
:天文24年/弘治元年(1555)


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■宮島にもあったんだ

 安芸の宮島(厳島)といえば日本三景の一つで、世界遺産にも登録されている広島の観光名所です。普通、島にはフェリーで渡ることになるので、フェリー乗り場が厳島の玄関口ということになりますが、降り場の建物を通り過ぎると真正面に小さな丘があり、その目立たないところに階段があります。一見すると島民の居住区に向かう生活道路のようですが、よく見ると傍らに「宮尾城」の案内看板が。現地を訪ねるまでまったく知らなかったのですが、宮島のこの場所には宮尾城という城があったのだそうです。
 現在の宮尾城跡は、ここに城があった事がまるで想像できないほど何も残っていません。もともとは数区画に分かれた山城で、水軍とも連携できる海賊城の特性を兼ね備えていたそうですが、あまりに何も残っていないので城跡の写真をまったく撮っていませんでした。何も無いと連呼してしまいましたが、ちょっとした丘になっているので高い建物の無い厳島の町並みを眺めるには好適の場所です。一段高いところから見渡す厳島の町の風景には、独特の味があります。
 宮尾城は、毛利氏が中国地方の覇者となるきっかけとなった天文24年(1555)の厳島合戦の際に、毛利元就によって築かれた城でした。しかしどうやら、軍事拠点として実用に供そうとしたというよりは、敵である陶氏の大軍を狭い厳島におびき寄せるための囮として築かれたものだと考えられているようです。
 

■厳島合戦

 一方、元就の勢力拡大を快く思っていなかったであろう晴賢は、毛利氏に対する圧迫を弱めることなく、ついには大軍を起こして安芸国内へと攻め込みました。元就にとって、この晴賢の侵攻はやがて必ずやって来ると想定していたものだったようで、数々の策謀を用意してこれを待ち構えていました。敵将に離間策を仕掛けたり、後門の狼となる尼子氏の勢力を削るなど、このときの元就の動きはまさに謀将の面目躍如といったところですが、総勢数万の陶軍を数千の自軍で打ち破るために、敵を大軍の展開しにくい厳島へと誘い寄せるのは、戦略の中でも柱となる作戦でした。
 結果的に陶軍は厳島に侵攻し、そこで毛利軍や、それと連合した伊予の村上水軍によって破られました。大軍を厳島に侵攻させる危険性は陶軍緒将も認識していたようですが、晴賢をしてこの危険な戦術に踏み切らせた原因の一つには、元就が宮尾城の戦略的重要性をさかんに吹聴し、ここを攻めさせるように仕向けたことがあると言われています。つまり、囮城・宮尾城は十分にその役割を果たしたというわけです。
 厳島は当時も神聖にして犯すべからざる土地であると認識されていました。そこで合戦を行い、厳島神社をはじめ島を荒廃させる形になった元就は、後年厳島の復興に尽力したということです。合戦後の宮尾城がどうなったかについて詳しい事は分かりません。後年毛利氏は北九州や四国へと勢力を伸ばす事になりますが、陶氏への備えを主目的に築かれたこの城は、存在意義を失うと自然に廃れて行ったのではないかと思います。
 

(2008年03月01日 初掲)















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