質素な構えの御三家居城。
水戸城
所在地
別名
茨城県水戸市三の丸
:馬場城、佐竹城など
築城者
築城年
:馬場資幹
:建久年間(1190〜1199)


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■御三家

 私は今のところは名古屋をホームにしていますが、「尾張名古屋は城でもつ」の言葉に象徴されるように、地元において名古屋城の雷名は、轟き渡っています。事実、名古屋城の現存建造物は数が限られてはいるものの、往時の様子を今に伝えるその縄張りは、御三家筆頭格の城たるにふさわしい規模を誇っています。
 また、御三家の中での序列はあるにせよ、和歌山城もその家格に相応しい城でした。
 最後に残った水戸城は、長らく未訪の期間が続きました。評判を聞く限り、極めて質素な城なのだと言います。世間の評判におそらく間違いはないだろうにせよ、いかほどの物か、かえって興味を引かれたのもまた事実です。

■七百年に届く歴史

 そんな水戸城ですが、歴史は古く、そもそもは平国香の末に当たる馬場資幹によって築かれたものと伝えられています。時に鎌倉時代の初頭、建久年間のことだったようで、以後二百年余り、馬場氏の当地支配が続きました。
 室町時代の応永23年(1416)、前関東管領であった上杉禅秀が、鎌倉公方足利持氏に対して反乱を起こしました。関東諸族を二分したこの乱において、馬場氏は禅秀側につきましたが、戦いは禅秀の敗北に終わり、水戸城も持氏側に立った江戸氏によって陥れられました。以後、江戸氏が水戸城の新たな主となります。
 再び転機が訪れたのは、豊臣秀吉による小田原征伐の時で、江戸氏は北条氏と結んでいたため秀吉に従わず、逆に江戸氏と対立関係にあった佐竹氏が小田原に参陣しました。その結果、秀吉の後ろ盾を得た佐竹氏は一気に水戸城を攻略することに成功しました。その後、水戸城の重要性を認めた佐竹氏は、居城を水戸城へと移しましたが、それから十年後の関ヶ原の戦いでは、会津上杉氏と内通した嫌疑をかけられ、出羽久保田城へ転封となりました。
 前主と同じく水戸城の戦略的価値に着目した徳川家康は、一門の大名にこの地を守らせることを考え、五男武田信吉を水戸城に入れましたが、無嗣断絶したため、これに代えて十男徳川頼宣、さらにその後には末子の徳川頼房を水戸城に入れました。義宣が紀州家の藩祖となったのに対し、頼房は二十五万石で水戸家の藩祖となりました。時に慶長14年(1609)、 頼房6歳の時のことで、頼房の統治は寛文元年(1661)まで続きます。世に「水戸黄門」として知られる光圀は、頼房の子で、水戸藩の二代藩主でした。
 以後の水戸城は、水戸家の居城として明治時代まで続きますが、豪壮な天守閣や堅固な石垣はついに造営されることがありませんでした。北方に軍事上の脅威が少なかったためのものとも、水戸家の家風を表したものだったとも言われます。

■街並みに残る城の名残

 水戸城は、現在で言うJR水戸駅の駅前付近にありました。もともと質素な城でしたが、現在では都市化の波に現われ、顕著な城郭遺構はほとんど残されていません。城地の跡には、二つの高校と一つの中学校、そしてやはり二つの小学校が集中し、周辺街区は一応かつての縄張りを基調にして整備されているようです。その昔に曲輪の間を区切った堀には、現在では道路や線路が走り、薬医門は県立水戸第一高校の敷地内に移築されています。
 三の丸にある藩校・弘道館は国の特別史跡に指定されています。すっかり文教地区となった旧水戸城内で、この一画だけには濃密に歴史の面影が残されています。

(2012年06月12日 初掲)





















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