信玄を悩ませた上州の堅城。
箕輪城
所在地
別名
群馬県高崎市箕郷町東明屋
:なし
築城者
築城年
:長野業尚
:永正年間(1504〜1521)


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■勇将・長野業正

 16世紀中葉の関東に、上杉憲政という人物がいました。関東管領という室町幕府の要職にも就いていたお偉いさんですが、川越城を巡る川越夜戦の敗北をはじめとして、軍事面でほとんど良いところが無いために、戦国大名としてはぱっとしないイメージの付きまとう人物です。後年になって長尾景虎、すなはち後の上杉謙信を義理の息子とし、上杉の名跡と関東管領職を譲り渡して面目を保とうとしていますが、こんな憲政の麾下にも、能臣あるいは名将と呼べるような人物がいました。上州箕輪城主であった西上野の土豪・長野業正は、さしずめその代表格と言えるでしょう。
 業正は、憲政が上野を去った後も箕輪城に残り、上野国侵攻を企てる武田信玄に対抗し、その存命中にわたって、ついに上野国を守り切ることに成功しています。そんな業正も、野戦では地力で勝る武田軍に後れを取ることが多かったと言われ、反面で箕輪城も業正亡き後には結局信玄により攻略されています。名将・業正と名城・箕輪城が並び立つことで、上野の独立は保たれていたのかもしれません。

■上州の要衝

 箕輪城の歴史は永正年間に始まったと考えられています。築城者は長野業尚もしくは憲業とされます。業正が活躍した時代はそれからおよそ30年ほど後のことであり、この時期が長野氏の実質的最盛期と言えましたが、業正から代替わりした業盛の時に信玄による箕輪城包囲網がいよいよ狭められ、西上野に孤立した末に武田軍の総攻撃を受けて落城しています。業盛は果敢に抗戦したものの、若干19歳の若さで自刃しました。
 以後、箕輪城には内藤昌豊が入れられ、武田氏滅亡の時まで上野支配の重要拠点とされました。武田氏の後は一時滝川一益の支配下に置かれ、本能寺の変後に北条氏邦の配下に入り、小田原征伐の際に前田利家によって陥れられると、北条氏の遺領を受け継いだ徳川家康の支配を受けています。家康は箕輪城に井伊直政を封じますが、高崎城が新たに築かれたのに伴い、慶長3年(1598)に廃城としました。
 武田氏以降の箕輪城主には、各陣営の実力者が封じられているのが特徴と言えるでしょう。特に武田氏と徳川氏時代には、四名臣とか四天王とか呼ばれる家中の重鎮が箕輪城主を務めており、この城の戦略的重要性が伺われます。

■大規模な平山城

 箕輪城は榛名山の南東麓に築かれた城でした。武田軍の攻勢を幾度となく跳ね除けた城であると言う予備知識があったために、急峻な山城をイメージしていたのですが、実際は榛名白川に面した河岸段丘上に位置しており、立地による分類では平山城の部類に入る城です。もっとも、その規模はかなり大きなものであり、特に城内の曲輪を隔てる巨大な空掘の存在には圧倒されます。
 幾度か支配者が入れ替わった城であり、こうした空掘がどの時代の遺構なのかは一概には断定しにくい部分もありますが、石垣などに比べれば築造に高度な技術が要求されない構造物であること、また強大な軍事力を誇った武田軍がこの城の攻略に手を焼いたことを考えれば、長野氏時代にはかなりの規模で作り上げられていたのかもしれません。城の一部には石垣も残されていますが、これの建造年代は徳川氏時代にまで下るでしょうか。城跡には土塁、土橋、馬出、虎口、埋門跡等々、バラエティに富んだ遺構が広範に展開されており、一見の価値はある名城だと思います。その規模の壮大さから、武蔵鉢形城や常陸太田城と合わせて関東三古城跡の一つに数えられているそうです。

(2008年10月31日 初掲)





















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