干殺しの城攻め。
三木城
所在地
別名
兵庫県三木市上の丸町
:別所城、釜山城
築城者
築城年
:別所則治
:延徳4年(1492)頃


お城スコープ > お城総覧 > 三木城

■三木の干殺し

 俗に「城攻めの秀吉」などと言われることもありますが、豊臣秀吉が臨んだ数々の城攻めの中には、広く巷間に知られるものが多々あります。三木城攻めもそうしたものの中の一つですが、この戦いについて言えば、秀吉による采配の妙や調略の巧みさが語り継がれていると言うより、「鳥取の渇え殺し」と並んで「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めの苛烈さが語り草になっていると言って良いでしょう。三木城を囲んでの兵糧攻めは、作戦の開始から開城まで、実に2年近くの長きに及びました。
 ちなみに、この戦いのさなかには秀吉の参謀であった竹中半兵衛重治が陣没しています。三木城の兵糧攻めは重治の献策であったと言われ、同様の戦術は以後の秀吉による城攻めにも受け継がれています。

■狭まる包囲網

 別所氏は、播磨国の守護大名・赤松氏の庶家でした。播磨の地は畿内に近く、中央の政争の影響を受けやすい一方で、戦国時代には中国地方の有力大名からの攻勢にもさらされ、赤松・別所の主従は尼子氏、三好氏、毛利氏、織田氏など、その時々の有力大名への対応と屈従を強いられることになります。
 三木合戦は播磨が織田氏勢力と毛利氏勢力の接触点となった時期のことで、それまで織田氏に従っていた別所長治は、突如として織田信長に対して反旗を翻し、毛利方に寝返っています。しかし、いずれの陣営に所属するにせよ、地理的に紛争の最前線となることは変わらず、長治にとっては苦しい判断だったことでしょう。
 とは言え、結果的に兵糧攻めに遭っていることからも分かるとおり、三木城はかなりの堅城で、ここに七千人とも言われる人員が集結したため、秀吉も力攻めでこれを攻め取ろうとはせず、大軍であるがゆえに難が生じる補給線を断つ方針を打ち出します。そのため、三木城を支える別所氏の諸城は相次いで落とされました。包囲状態が続く中、摂津では信長に対して反旗を翻していた荒木村重が敗れたのをはじめ、中国地方東部の反織田勢力の諸城も次々と落とされていきます。
 こうして織田氏の勢力圏に孤立する形となった三木城は補給、救援を待つこともままならない状態となりました。天正8年(1580)の正月を迎えると、秀吉は三木城本体への攻撃を開始、もはや完全に糧道を断たれていた城方は、半月と経たないうちに開城勧告を受け入れています。別所氏一族の命と引き換えに城兵を救うと言うのが交換条件でした。長治辞世は「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば 」。

■三木城その後

 歴史にその名を残すことになったとは言え、三木城の築城時期については不明な点が多く、15世紀末になって別所氏によって築かれたのではないかと考えられています。兵糧攻めのエピソードがあまりにも有名なため、個人的に別所氏の滅亡と共に廃城となったようなイメージさえ持っていた三木城ですが、実際には江戸時代の初期、元和3年(1617)の一国一城令まで存続しており、後年になって天守を備えるようになった他、その縄張りはかなりの広範囲まで及んでいたと推定されています。
 もっとも、そうした歴史も今となっては「兵どもが夢のあと」と言ったところか、現在は本丸に相当する上の丸公園周辺に城郭時代の名残をわずかに残すのみとなっています。公園敷地内には、「かんかん井戸」と呼ばれる井戸跡や、前述した長治の辞世を刻んだ石碑が建っていますが、その雰囲気は世間一般の都市公園とさほど変わるところがありません。公園直下の神戸電鉄粟生線三木上の丸駅から見上げる、木々に囲まれるこんもりとした本丸の盛り上がりが、戦国山城の時代の面影をもっとも良く残しているのかもしれません。
 なお、上の丸公園近くの雲龍寺には、長治夫妻の首塚があります。

(2010年12月05日 初掲)





















戻る
TOP