小早川警固衆の水軍城。
三原城
所在地
別名
広島県三原市館町1丁目
:なし
築城者
築城年
:小早川隆景
:天正8年(1580)


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■小早川隆景と水軍

 吉川元春と小早川隆景は共に毛利本家を支えた功臣でしたが、豊臣秀吉による天下統一事業が完成に近づき戦国の世も終わろうかという時期、二人は対照的な道を歩む事になりました。秀吉嫌いだった元春は秀吉に臣従することを潔しとせずにさっさと隠居を決め込んで表舞台から去ってしまいましたが、隆景はその能力を秀吉に認められ、毛利氏と言う枠組みを超え日本の舵取りに影響を及ぼすほどの地位に付きます。毛利両川のこのような差はどこで生まれたものだったのでしょうか。もちろん生来の資質もあったのでしょうが、個人的には二人が相続した吉川氏と小早川氏という二つの家の性格が大きく影響しているような気がします。
 小早川氏はもともと瀬戸内海で活動していた海賊に近しい一族で、自らも交易と海運を行っていた関係から、中央の政局をはじめ日本各地、ことによるとアジア諸国の事情にも通じていたのではないかと言われることがあります。そういう家を継承した事で、隆景は毛利水軍の代表者となり、瀬戸内海を挟んで四国にまで影響を及ぼす事になりましたが、それと同時に水軍衆とつながりを持つことで彼自身の眼が毛利氏という枠組みを越えた外の世界へと向けられ、自身の政治力が磨かれていった面もあるような気がします。元春も、剽悍な尼子の遺臣を率いて山陰を転戦し、毛利氏の重要な財源となっていた石見銀山を統括するなど、毛利家中において重きを成していましたが、それはあくまで毛利の家あってのものだったのでした。
 本能寺の変が勃発した際、秀吉は毛利軍と対陣していましたが、明智光秀討伐のために退却を開始した秀吉に追撃を仕掛けず、後々のために恩を売っておこうと提言したのは、一人は毛利の外交僧・安国寺恵瓊であり、もう一人が隆景でした。このような先見の明が、直接的にも間接的にも、豊臣政権における隆景の地位を押し上げていく事になります。
 

■水軍の城は隆景の隠居城に

 さて、隆景が相続した小早川の本城はもともと沼田にあった高山城でした。隆景自身、小早川本家の当主となるに際して新高山城を新築ていますが、永禄10年(1567)には当時から港湾都市として開けていた三原の地に新城を築く事になりました。二つの高山城も城下の沼田川によって海に通じており、海を主要な活躍の舞台の一つとした小早川氏の居城としては悪くない立地だったのですが、当時の三原は交易の拠点であると共に、鋳物師や鍛冶師たちも多く居住していたようで、軍略政治の両面で重要な意味を持つ土地でした。
 築城当時の三原城は湾内にあった二つの島をつなげた上に築かれ、城自体が海にせり出し舟入を備えた海賊城の構えになっていたという事です。後年、毛利氏が秀吉と誼を通じるようになると、隆景の本拠は名実共に三原城へと移されました。城主の隆景は秀吉の信頼を獲得することに成功、豊臣政権下でその才能を存分に発揮し天下にその名声を轟かせ、伊予から筑前・筑後と各地で善政を敷いたと伝えられますが、彼が隠居城に選んだのは三原城でした。それにあたって新高山城は完全に解体、その部材が流用されたようです。以後の三原城は、広島藩の支城として福島氏や浅野氏の一門が入り、幕末を迎えました。
 現在の三原は海岸線が変化し、城のある辺りはちょっと内陸に入り込んだ場所になり、城をめぐる風景は大きく様変わりしてしまいました。明治期の鉄道工事に起因して城地も大きく破壊されており、往事の姿は見る影も無しと言ったところでしょう。現在の三原城址には、堀と天守台の石垣が残されていますが、三原駅の駅舎がそれらに食い込むさまはある種の痛々しさもあります。天守台跡には特に何も残されていませんが、見学する場合はいったん三原駅に入り、構内にある天守台見学専用の出入口から移動するより他にありません。その関係で天守台へと出入り可能なのは6:30〜22:00の間に限られています。
 

(2008年03月01日 初掲)















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