高石垣の古城址。
松阪城
所在地
別名
三重県松阪市殿町
:なし
築城者
築城年
:蒲生氏郷
:天正16年(1588)


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■突出する城

 かつて伊勢国と呼ばれた土地の南部に位置する松阪の市街地は、海にも比較的近く、どちらかと言うと低平な土地に開けた街という印象があるのですが、蒲生氏郷の残した松阪城だけは少々事情が異なります。形態の上では平山城に分類されるこの城は、高さの異なる数段の曲輪からなる梯郭式の構造を持っており、その最高所に相当する天守台は、城周辺の土地から見るとかなりの高所に位置しています。現在の松阪市内にも目立った高層建築はないので、城跡は街中に突出しているようにも感じられますが、ビルを建てる技術のなかった近世以前ともなれば、城下における松阪城の存在感は圧倒的だったことでしょう。

■蒲生氏郷の築城と街づくり

 松阪城の歴史は、天正16年(1588)の蒲生氏郷による築城に始まります。氏郷は当初、織田信雄が築いた松ヶ島城に十二万三千石で入りました。この松ヶ島城、今でこそ見る影も無くなっていますが、往時は二重の堀に囲まれた中に五層の天守を頂く壮大な城だったと伝えられています。それだけの城であったにもかかわらず、松ヶ島城下が拡張性に欠けることを感じていた氏郷は、来るべき時代に向けて、新城の築城を志すようになります。こうして、当時「四五百森(よいほのもり)」と呼ばれていた現在の城地に築かれたのが松阪城でした。城の部材には領内の社寺の資材が用いられました。新しい城下町は、松ヶ島城下の住人たちがそのまま引っ越して来ると共に、氏郷の旧領であった近江日野からも商人を呼び寄せて出来上がりました。この町には参宮街道も引き入れられており、城づくりのみならず町づくりにもかける氏郷の情熱が伝わってくるようです。
 しかし築城から二年が経った天正18年(1590)、氏郷は小田原役後を経て会津六十万石に加増転封となり黒川城に移ります。豊臣秀吉の軍門に下ったとは言え、いまだ野心の炎を絶やしてはいないと目されていた伊達政宗をけん制するための国替えだったと言われています。栄転には違いないのでしょうが、氏郷にとっては幸だったのか不幸だったのか。
 氏郷のあとには服部一忠、古田重勝が封ぜられましたが、元和5年(1619)に紀州徳川家が成立すると、松阪城は紀州藩の一部となり、以後松阪城には紀州藩の城代が置かれました。

■松阪の歴史を訪ねて

 城内の建物の多くは、元和の一国一城令の時に撤去されたとも言います。また三層であったと言われる天守閣は正保元年(1644)の台風で倒壊し、失われたと伝えられています。二の丸には徳川氏時代の陣屋が築かれていたと言うことですが、今ではそれも残っておらず、要するに現在の松阪城址には建物らしい建物は全く残されていません。しかしそれでも、その石垣の見事さは特筆に価します。全体にあまり多くの加工を加えていない野面積を主体とする石垣は、城跡全体に残されており、かつての偉容を偲ぶよすがを現在に残しています。
 城址全体で見れば、まさに古城址公園と言った風情があり、松阪の歴史に触れたい時には、格好のスポットと言えるでしょう。城跡近くには本居宣長に関する史跡・記念館の他、お城番屋敷と言った歴史的建造物も残されています。
 あと、松阪と言えばやっぱり松阪牛でしょうか。私は主に懐具合の関係で食べていませんが。

(2009年04月13日 初掲)















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