海外からの脅威に備えた最後期の日本式城郭。
松前城
所在地
別名
北海道松前郡松前町字松城
:福山城
築城者
築城年
:松前崇広
:嘉永6年(1853)


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■日本式築城の終焉

 松前城に関する特筆すべき点は、最後期の日本式築城の城という一事に尽きます。これ以降に築かれる国内の城郭は、西洋軍学に依拠した砲戦仕様の稜堡式城郭となり、日本城郭の正統進化であるとは言い難いものと成り果てます。松前城は、日本式築城の一つの到達点と言い得るものでしょう。
 しかし、松前藩は大藩とは言い難い藩でした。米作に適さない地だったため、石高は形式上設定されたものに過ぎず、アイヌとの交易や漁業によって藩の財政が成り立っていました。執政所としては長らく陣屋が置かれていただけで、これが福山館などと呼ばれていました。陣屋ながらもある程度城郭的な体裁を保ってはいたようですが、名実ともに松前城と呼ばれる城に拡張されたのが、嘉永2年(1849)のことでした。藩主・松前崇広は、幕命によりこの改築工事を行いました。外様の小大名に対する異例とも言える下命でしたが、当時は欧米諸外国からの開国圧力が高まりを見せており、こと蝦夷地においては、北方のロシアに対する備えの城が必要とされたためと理解されています。ペリーの浦賀来航が嘉永6年(1853)。日露和親条約の締結が安政元年(1855)のことでした。
 もっとも、肝心の軍事拠点としての能力には疑問が残ります。土台が、藩の実力に見合った小城だったことも加味する必要はあるでしょうが、明治元年(1868)、蝦夷共和国の樹立を目指した旧幕府軍の土方歳三により、松前城は脆くも陥れられてしまっています。軍艦による艦砲射撃も含め、旧幕府軍の兵装・戦術も西洋化が進んでおり、これを持ちこたえるためには松前城が脆弱に過ぎたようです。仮にロシアとの戦闘が発生していたら、蝦夷地南部を支えることはできたでしょうか。

■松前氏について

 城主だった松前氏は、一応は清和源氏武田氏の流れに連なる武田氏の末であると自称し、家紋にも菱を用いていました。有名な甲斐武田氏から分かれた安芸武田氏、そこからさらに分かれた若狭武田氏の流れであるとされるていますが、どこまでが真実なのかは疑問が残ります。もとは蠣崎氏を称しており、陸奥に根付いていたこともあったようですが、いつの頃にか蝦夷地に渡り、長禄元年(1457年)に発生したコシャマインの乱の鎮定に功あって、蝦夷地に地歩を固めていきました。
 対馬の宗氏がそうだったように、離島部の領主が一度独自の地位を築いてしまうと、容易にその立場を脅かされることが無くなるようで、以後近世を迎えるまで、蠣崎氏はアイヌとの関係を深めていきます。そして、江戸開府に至り、将軍家から蝦夷地の領有を認められるようになりました。実態は追認に過ぎないものでしたが、稲作を経済の基とする世の中で、その稲作が行えない土地とあっては、他の大名の統治では蝦夷地が治まらないという判断もあったのでしょう。幕末を迎え、外様大名である松前氏がこの地である種重きをなした背景には、そうした出自によるものがあったのかもしれません。

■小さな城跡

 現在の松前城跡には、本丸御門をはじめ、石垣や土塁などが残っています。層塔型の天守のような建物もありますが、幕末維新の動乱にも、太平洋戦争の戦火にも焼け残ったもともとの天守は、昭和24年(1949)の失火で失われているので、これは外観復元の資料館です。内部では松前藩時代の遺物や、アイヌに関する展示が行われています。
 城跡全体を俯瞰してみると、さほど広くない敷地が公園風に整備されているのみで、旧城下のあたりから高台上の城跡を見上げた時の感覚に比べ、小ぢんまりとした印象を受けます。また、現存建築物や復元建物に見える特徴は、他の古手の城と大きく異なるものではなく、当然のことながら、少し下った時代の西洋式城郭と比較した場合ほどの際立った差異はありません。かつての縄張りはいくらか市街地に浸食されているようですが、長く太平の時代を謳歌した中では、築城術の基本となる軍学は、机上の学問となって停滞を見ていたのかもしれません。完全な縄張りが残っていたとしても、江戸初期以前の城とは、いかばかりの違いがあったでしょうか。

(2016年09月04日 初掲)





















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