扇の傾斜を描く高石垣の城。
丸亀城
所在地
別名
香川県丸亀市一番丁
:蓬莱城
築城者
築城年
:奈良元安
:14世紀


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■動乱の織豊期

 現在丸亀城がある亀山は、室町時代にはすでに砦のようなものが築かれていたようです。築いたのは管領・細川氏の家臣で細川四天王の一人とも呼ばれた奈良元安でした。もっとも、元安の本拠地はあくまで宇多津にあった聖通寺城の方で、亀山の城はあくまで支城として築かれたものでした。
 時代は下り、四国の覇権を握ったのは細川氏でも三好氏でもなく、土佐の長宗我部元親でした。奈良氏は結局元親によって滅ぼされましたが、長宗我部氏による四国支配も儚いものに終わり、元親は間もなく豊臣秀吉の軍門に下りました。元親は本領の土佐を安堵され、讃岐には豊臣政権から仙石秀久が封じられました。しかしその秀久は九州征伐に際して、数の上では勝るはずの島津勢に敗北を喫する大失態を演じました。同じ四国勢の長宗我部信親や河存保らが討ち死にすると言う状況の中、秀久は早々に自国へと撤退していますが、これが秀吉の癇気を買い、その報いで高野山へ追放されてしまいます。
 戦国末から織豊期にかけてこの辺りの支配者は目まぐるしく変わっている印象を受けますが、秀久の後には生駒親正が十七万石で讃岐に入りました。
 

■現存する天守と高石垣

 親正が讃岐支配のための執政府としたのは高松城でした。しかし東西に長い讃岐国を完全に掌握するのに高松城一城だけではやや不都合があったのか、親正は西讃岐にも別の拠点を求めました。この時に目をつけたのが、かつて奈良氏も支城を配していた亀山の地です。着工は慶長2年(1597)の事で、完成までは5年の歳月を要しました。
 しかしそれから10年余り後の元和元年(1615)、世に言う「元和の一国一城令」が出されます。「一つの藩に二つ以上の城があってはならない」との幕府からの厳命を受け、丸亀城も廃城となるはずでした。しかし生駒氏三代藩主であった生駒正俊は城を完全に破壊する事はせずに、城の各所に樹木を植えて城を隠し、見かけをもとの亀山に戻して誤魔化したという逸話も残されています。
 さらにその後の寛永17年(1640)。生駒氏は出羽に転封になり、讃岐は松平氏と山崎氏によって分割統治される形になりました。松平氏は生駒氏が本城とした高松城に入りましたが、西讃岐に入封された山崎家治は、廃城となっていた丸亀城を修築して使う事になりました。工事の完成には実に32年を要したと言われ、現存する天守と石垣の大部分は家治の時に築かれたものだと言われています(天守は京極氏時代のものとする説もあり)。
 丸亀城を特徴付けるのは、現存天守と石垣です。現存天守は日本全国でも12しかありませんが、丸亀城のそれは12あるうちの一つです。見ての通り規模はさほど大きくなく、今に残る江戸期の天守としてはもっとも小さなものなのだとか。対照的に、扇の勾配を描く切り込みハギの石垣はその高さが66メートルにもなり、これまた日本でもっとも高い石垣であると言われ、この城の螺旋の縄張りとあいまって見る者を圧倒する迫力があります。
 なお、山崎氏は三代で途絶え、その後を引き継いだ京極氏の治世の時に明治を迎えました。
 

■悲劇の築城伝説

 天守閣直下の二の丸には、井戸が一つ残されています。70メートルにも届こうかという高さにある井戸ですから、おそらくかなり深い井戸なのでしょう。上から覗き込んでみても、全く底が見えません。
 生駒親正がこの地に城を築いた時の事。今もなお丸亀城を丸亀城たらしめている石垣の工事は、決して簡単なものではありませんでした。その完成までには、名工と言われた石工・羽板重三郎の苦心があったといわれています。それだけに出来上がった石垣を眺める親正の感慨もひとしおでした。いざ戦になったとしても、一体誰が威容を誇るこの石垣を登れるというのでしょうか。
 ところがその時、重三郎がとんでもない事を言い出します。「鉄棒の一つも貸していただければ、この石垣を登って見せましょう」と。そしてその言葉通り、重三郎は鉄棒を石垣の割れ目に差し込みながら器用に城の石垣を登ってしまいました。それを見た親正は、重三郎が敵に通じたら大変な事になると青くなり、重三郎の殺害を決意しました。後日重三郎は二の丸井戸の中を調べるように言われ、言いつけどおり井戸の底まで降りて行ったのですが、底まで達したところで上から石を落とされ殺されたと、伝説は伝えます。
 「重三郎、なぜもう少し自重できなかったのか」と、独特のやりきれなさの残る言い伝えです。
 

(2008年03月01日 初掲)



























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