宿場町に残された甲州流城郭の跡。
丸子城
所在地
別名
静岡県静岡市駿河区丸子
:なし
築城者
築城年
:斎藤安元
:応永年間(1394〜1428)


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■今川氏親、北条早雲と丸子城

 東海道は丸子と言えば、広重の浮世絵にも描かれた宿場で、周辺は現在も歴史の街として観光客を呼び込んでいますが、その近くには武田氏系城郭の特徴を色濃く呈する丸子城がありました。この城はもともと、応永年間に今川氏の家臣である斎藤氏の城として築かれたものです。
 文明8年(1476)、今川氏当代であった義忠が戦場において横死すると、その嫡子龍王丸と、庶家で義忠のいとこにあたる小鹿範満の間で、家督が争われることになりました。嫡流とは言え年少だった龍王丸の旗色は悪く、表向きは龍王丸元服までの間の後見人として範満が立つ段取りになり、龍王丸は母北川殿ともに、駿府を離れて丸子城に入りましたが、約束は果たされることなく、龍王丸が成人してもなお、範満が政治の実権を握り続けていました。北川殿は、一連の政争の中で幾度か、兄・伊勢盛時を頼っていますが、ついには盛時によって範満が討たれ、龍王丸は今川氏親を名乗り、今川氏七代を継承するに至りました。この盛時が、世に言う北条早雲で、氏親の家督相続を取りまとめたことが、小田原北条氏が戦国大名として立つ第一歩となりました。
 そして丸子城は、駿府を守る今川氏の支城の一つに位置づけられることになります。

■甲州流の技巧

 その後の今川氏は、繰り返される家督争いで領国内が乱れることこそあれ、外敵によって駿河国を蹂躙されることなく、今川義元の時に最盛期を迎えます。しかし、好事魔多し、永禄11年(1560)に桶狭間の戦いで義元が討ち死にすると、8年後の永禄11年には、武田信玄の駿河侵攻を受け、丸子城も武田氏の支配下に置かれるようになりました。城はこの時期に大規模な改修を受け、現在まで見られる城郭遺構には、甲州流の技巧がよく見受けられます。規模は並み程度のものながら、戦国山城の跡としては出色のもので、空堀、土塁、土橋、犬走り等々、多種多様な遺構が残されており、マニアならば一見の価値がある城と言って良いでしょう。
 なお、近在の誓願寺には、片桐且元の墓があります。方広寺鐘銘事件の弁明の際、駿河に下った且元が、家康によって留め置かれたている間に滞在した寺が、この誓願寺なのだそうです。
 冒頭触れたとおり、丸子界隈は性格も様々な史跡が点在しており、歴史好きなら周遊するのも楽しみな街並みです。

(2012年06月29日 初掲)

















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