足利将軍終焉の城。
槇島城
所在地
別名
京都府宇治市槇島町
:なし
築城者
築城年
:槇島氏?
:不明


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■勝機薄い籠城

 今日、「実行しても大勢に影響のない時間稼ぎ」程度の、否定的なニュアンスが付着している籠城と言う言葉。本来は兵站の伸びきった相手の疲弊を待ったり、後詰(後発の援軍)の到来を待ったりするための戦術でした。これをよくした中で有名なのが小田原北条氏でしょう。最後はその籠城戦の強みをまったく消してしまう豊臣秀吉の武威に屈しましたが、戦国の頃の比較的小規模な合戦においてはそれなりに有効だったと思われます。その反面、勝ち目のなさそうな籠城戦をここ槇島城で行った人物がいます。誰あろう、室町幕府最後の将軍となった十五代・足利義昭です。相手は、名実ともに天下人となりつつあった織田信長。時期としては元亀4年(1573)のことでした。
 さはさりながら、この時期はいわゆる信長包囲網が信長を苦しめた時期でもあります。意義が薄いとまで評するのは、義昭に対して酷かもしれません。義昭は、親足利・反織田の勢力を糾合し、信長に対して牙をむきました。呼応して、信長に対抗し得る実力を持った武田信玄や浅井長政、朝倉義景らの大名が織田領に対する圧迫を強めていきました。ここまででも殊勲と言えるのかもしれません。

■包囲網の破綻と将軍追放

 実力において包囲網の盟主となり得たのは、やはり信玄だったのでしょうが、中世日本の政治構造からして、その頂点にあったのは足利将軍とするべきところでしょう。義昭自身、傀儡将軍の自覚はあったのだと思われますが、自分が立てばそれを盛り立てようとする勢力が、信長の足元である畿内からも現れることを期待していたと思われる節があります。また、象徴的な意味での旗頭である義昭が立たなければ、参加勢力の士気が上がらず、足並みがそろわないということも計算していたのかもしれません。
 包囲網が一定の成果を上げた以上、義昭はそういう計算ができる人物だったのだと思いますが、残念ながらその野望は虚しいものとなりました。一般的には、徳川家康を三方が原で破った信玄が逝去し、その軍勢が領国甲斐へ引き上げていったことをもって信長包囲網の瓦解とされることが多いようですが、実際には畿内に接する朝倉義景の意欲は低く、それと連携していた浅井長政も単独で信長と戦って力押しできるほどの実力は備えていなかったため、包囲網の連携は拙かったと言わざるを得ません。同じころ、二条城で信長に対して反旗を翻していた義昭は、信長の武威に屈して和睦を結ぶ形になりました。
 かくして、戦いは信長による畿内の反信長勢力掃討戦と言う局面に移行して行きましたが、そうした折も折、義昭は再度槇島城に挙兵しました。もはや、義昭と信長の関係は修復不可能なものとなっていたのかもしれませんが、この時期には、信長を脅かし得る存在、言い換えれば義昭を助けられる勢力が機内に現れることは期待できない情勢となっていました。槇島城は、もはや裸の王様状態。衆寡敵せずの言葉通り、瞬く間に信長の前に屈することとなりました。そしてついに、義昭は追放の憂き目を見ることになり、室町幕府は滅亡しました。それからほどなく、浅井・朝倉の両氏も、信長によって滅ぼされています。

■石碑が立つのみの城跡

 槇島城跡の最寄り駅となるのは、宇治駅です。宇治駅はまた、平等院鳳凰堂の最寄駅として、一大観光地の玄関口としての華やかな顔を見せていますが、槇島城があるのは平等院があるのとは反対の、駅北側です。駅前と言うより駅裏のイメージが漂う出口を出ると、眼前に広がるのはユニチカの工場と新興住宅地です。この工場エリアがかなり広く、北側には任天堂の工場もあるが、城跡の碑は、任天堂工場の少し北側の住宅地一画にある小さな公園の中にありました。それ以外は、本当に何もありません。
 もとは槇島の名の通り、巨椋池(現存せず)につながる宇治川の中州のような場所に位置していたお城のようです。周辺街区にある水路は、かつての河道の名残なのかもしれません。よく言う、天然の水堀だったと見ることもできます。現地の解説板では河道の付け替えによってかつての雰囲気はなくなったとしていますが、恐らく城の遺構は住宅地造成の時に壊滅したのだと思われます。公園自体も取ってつけたように存在している感が否めませんが、本当にただの住宅地にしないために、辛うじて残されたもののような気もします。現在は、少し北にある槇島公園に槇島城記念碑が建っているという話ですが、何も残っていない城という結論は変わりそうもありませんでした。

(2017年10月29日 初掲)















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