安房里見氏の全盛期を象徴する城。
久留里城
所在地
別名
千葉県君津市久留里
:雨城、霧降城、浦田城
築城者
築城年
:武田信長
:康正2年(1456)


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■里見氏の一族

 房総の戦国大名というイメージが強い里見氏ですが、もともとは新田氏系源氏の系譜に連なる名族でした。里見氏は、鎌倉幕府に重く用いられ、その一族は各地に所領を得ることになります。しかし鎌倉幕府の滅亡に前後し、関東以外の諸流は次第に衰微していきました。
そうした中で権勢を奮ったのが安房里見氏ですが、その起源をどこに求められるかと言う問題については、未だ決着を見ていないというのが実情です。現在では、史料の正当性・確実性に鑑みて、15世紀はじめに出た里見義道が、実質的な安房里見氏の始祖であるとするのが一般的なようです。
 里見氏は、しばしば小田原北条氏と争っていますが、久留里城は、対北条氏戦線において里見氏の一拠点となりました。ただ、その久留里城もまた、古い時代のことが明らかにされていない城です。

■新生、廃城、そして復興

 久留里城は、甲斐武田氏の傍流であった武田信長により、室町時代中期に築かれ、以降は真里谷氏を名乗った信長の子孫に継承されていきましたが、いつの頃にか房総半島で勢力を伸ばした里見氏の傘下に組み入れられた物と推定されています。
 里見氏の勢力伸張過程に不明な点が多いため、この辺りの経緯も未だ研究が進められていますが、ともかくも、里見氏時代に久留里城は面目を新たにしました。城地が完全には重複していないこともあり、真里谷氏時代の物、里見氏時代の物、それぞれに推定される遺構は明瞭に区別できるようです。
 新しい主たる里見氏は、北条氏に対して屈強の抵抗を続けたものの、小田原征伐に際しては秀吉の怒りを買い、久留里城も含めた上総・下総の二カ国を失いました。以後の久留里城には、松平氏、土屋氏の居城となった後、60年余り廃城となっていた期間があり、寛保2年(1742)に黒田氏が封じられて再び久留里藩の政庁に復帰した後は、黒田氏代々の居城として明治維新まで存続しました。

■山城の跡

 里見氏全盛期の城跡として知られる久留里城跡ですが、現在見られる遺構は、里見氏時代に城地が定まった新久留里城をさらに改築・拡張した江戸期以降のものが中心となっています。公園となっているのは本丸が中心で、外郭も山麓に広がっていましたが、こちらは現在では宅地あるいは農地に姿を変え、城跡としての風情を偲ぶことはできません。一部の遺構は、皮肉にも公園整備の時に破壊されていたりもしますが、本丸の天守台跡などに、往時を思わせるよすががあります。他、土塀跡なども残されています。
 なお、城跡にある城郭風建築は、昭和54年(1979)模擬復元された天守であり、従来の天守台跡に隣接して築かれました。また、公園内には久留里城址資料館があり、主郭部見学に先立っての入館が推奨されています。

(2012年06月01日 初掲)















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