「赤鬼」が籠もった丹波の山城。
黒井城
所在地
別名
兵庫県丹波市春日町黒井
:保月城、保築城
築城者
築城年
:赤松貞範
:建武2年(1335)


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■丹波の赤鬼

 丹波篠山近隣は、いくつかの特徴的な城を残す地域として、Wikipediaでも高評されているようです。すなはち戦国山城であるところの八上城と、天下普請による近世城郭・篠山城が近接していることを指しての評価らしいですが、篠山市に隣接する丹波市にも、戦国山城の特徴を色濃く残す城が存在しています。一般的知名度はそれほどでもないですが、隠れた名城と言っても良いでしょう。それが、ここで紹介する黒井城です。空から撮影されたこの城の写真を初めて目にした時は、私も思わず感心してしまったほどです。
 標高356mの猪ノ口山山頂にその遺構を残す黒井城の歴史は、南北朝時代にこの地を支配した赤松貞範によって築かれた砦に始まると考えられています。もっとも、この城の主として有名なのは、「丹波の赤鬼」としてその名を知られた赤井(荻野)直正でしょう。知る人ぞ知るといった武将ですが、天文23年(1554)に年来黒井城の城主であった荻野秋清を殺害して黒井城主の座についたもののようです。現在見られる黒井城の遺構は、直正の時代に築かれたものだと推定されています。

■明智光秀との戦い

 16世紀も後半の天正の頃になると、丹波の地にも織田信長の影響力が及ぶようになってきました。当初直正は信長に従ったものの、同じく信長の麾下に参じた但馬の山名氏との折り合いが悪く、これと争っているうちに直正の武威を前にした山名氏が信長に助けを求めたため、結果的に直正と織田陣営とは敵対関係に陥ることになりました。
 こうして丹波平定に乗り出してきたのが明智光秀で、一時その軍勢は黒井城にまで迫りましたが、光秀に従っていた八上城の波多野秀治が直正側に着いたため、光秀は手痛い敗北を喫して領国の丹波亀山城へと退却しました。光秀撃退により織田軍との敵対がいよいよ決定的なものになると、直正は毛利氏や石山本願寺、さらには武田氏とも同盟を結ぶという、武勇一辺倒でない外交家ぶりも見せますが、天正6年(1578)に病没しました。赤井悪右衛門直正の指導力と求心力を失った黒井城は、天正7年(1579)8月、光秀に率いられた軍に攻略されています。後には、光秀の家老・斉藤利三が入れられました。後世、江戸城大奥で権勢を振るった春日局の父親に当たる人物です。春日局は黒井城で生まれたと伝わります。
 廃城は天正末年頃のことだったと考えられています。

■山上の遺構

 JR黒井駅を出た時、前方に見える平らな頂を持つ山が猪ノ口山です。平らな山頂は、黒井城の主郭を築くため削平されたもので、山城の中でも麓からこれだけはっきり城跡の様子を遠望できるところは多くありません。駅前にある春日局少女時代の像の前を通り過ぎ、まっすぐ進むとやがて登城口に着きます。残念ながらやや分かりにくい場所なので、地元の人に聞きながら行った方が良いかもしれません。
 城跡には野生の動物が多いらしく、山頂への道を登り始めてしばらく行くと、動物たちが人里に出て行かないようにするための金属製のフェンスとゲートが設えられています。偶然城跡で出会った地元のおじさんによると、猪や、まれに熊が出る場合もあるとのこと。剣呑な話ですが、とりあえず登山者はこのゲートを開け閉めして山頂を目指します。
 道中には三段曲輪跡といった遺構も存在しますが、見た目にも城跡であることが一目瞭然なのは、山頂近くの石踏みの段、西の丸、本丸などでしょう。特に本丸周辺には、戦国末の野面積みの石垣が良好な状態で残されています。
 なお、前述したおじさんからは黒井城の歴史を紹介したリーフレットをもらえました。どうやら本来は丹波市春日歴史民俗資料館でもらえるもののようです。城の歴史や見所などを網羅した、黒井城訪城時必携の一冊です。

(2008年09月27日 初掲)





















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