神君も眠る城跡。
久能山城
所在地
別名
静岡県静岡市駿河区根古屋
:久能城
築城者
築城年
:武田信玄
:永禄11年(1568)


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■「甲陽軍鑑」に見える名城

 静岡市南部の海岸地帯に、日光と並んで三大東照宮の一つに数えられる久能山東照宮があります。静岡市内の主要観光地の一つで、休日ともなれば多くの観光客が訪れるこの場所も、戦国の昔には城が築かれていた事があります。その名も久能山城と言い、戦国武田氏の事跡をまとめた史書「甲陽軍鑑」の中では、甲斐の岩殿山城や上野の岩櫃城と並び天下の三名城と称されています。三城全て武田領の中に存在した城なので選考対象に偏りがあるのは否定できませんが、これらの城には興味深い共通点があります。いずれも岩肌の露出した断崖絶壁上の山城なのです。
 研究者の間では、武田氏の用いた甲州流の築城術において石垣があまり用いられなかった事が知られていますが、本質的にそうした技術が未発達だったのかもしれません。ひょっとすると、そそり立つ絶壁上の三名城というのは、天然の石垣を備え、武田氏の技術力の不足を埋められるだけの強みを備えた城として選ばれたものだったのかもしれません。そう考えると、なかなか興味深いものがあります。
 なお余談に属する話ですが、三大東照宮の日光・久能山に次ぐ三番手は、全国各地の東照宮がめいめい「我こそは三番手である」と名乗っているのが現状だそうです。

■信玄と家康が注目した天嶮

 久能山にはもともと、七世紀に築かれたと言われる補陀洛山(ふだらくさん)久能寺が存在していました。しかし永禄11年(1568)。武田信玄は駿河から今川氏を追うと、程なくして要害の地であった久能山に注目し、寺院を山から下ろした後で駿河の守備を担う拠点の建設に着手しています。これが久能山城です。現在の久能山には、「勘介井戸」と呼ばれる築城当時からのものと思われる遺物や、愛宕曲輪などの跡、それから「軍鑑」にも認められた要害の天然地形が残るものの、城郭時代の縄張りの多くは東照宮建設の際に破壊されており、城跡らしさはありません。
 その東照宮の主、東照大権現こと徳川家康は、大御所として駿府城に隠居した後、かつて信玄が築いた久能山城に注目して「駿府城の本丸である」と言うほどに重要視したと伝えられていますから、東照宮はこの地に建つべくして建ったと言うべきなのかもしれません。元和3年(1617)に権現様のお社が建った事で久能山が戦時の拠点として利用される事はなくなりましたが、家康の遺志はこの場所から駿河を、ひいては江戸幕府を守り続けたのかもしれません。

■山紫水明の地

 既述の通りに久能山城は東照宮建設の時に廃されたと言っても過言ではないのですが、では城跡が東照宮によって完全に破壊されたかと言えばそうでもないようで、東照宮の主要な建物などは古城址の曲輪を基調するような形で建てられているようです。具体的には、日本平方面へと続くロープウェイ駅があるあたりの広場が二の丸跡、社殿などの主要な建物があるのが旧本丸跡、家康の遺骸が祀られた御廟所が本丸を取り巻く帯曲輪と思しき平地に造られているようです。
 家康の亡骸は後に日光に改葬され、また久能山から分霊される形で日光東照宮が成立しましたが、家康が最初この場所に葬られたのは、久能山が駿河当地の要所であったのもさることながら、その頂から風光明媚な景色を望めることも大きかったのかもしれません。山上からは駿河湾とその向こうに見える伊豆半島や太平洋を遠く眺望でき、眼下には家康の時代にはなかったイチゴ栽培のビニールハウスが日の光をきらきらと反射しながら立ち並んでいます。久能山城行きは、山麓に甘いイチゴの香りが漂う春の日のことでした。

(2008年04月15日 初掲)





















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