近世佐竹氏の居城。
久保田城
所在地
別名
秋田県秋田市千秋公園
:矢留城、葛根城
築城者
築城年
:佐竹義宣
:慶長9年(1604)


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■佐竹氏の国替え

 秋田の県都・秋田市の中心近くに、千秋公園はあります。
 私にとって、東北秋田は彼方の地。であるだけに、この公園は秋田城の跡に作られた公園だと思っていたのですが、厳密に言うと、秋田城というのは古代城郭のことを指し、近世以降にの藩庁として機能し、後に千秋公園の敷地となった城の方は、久保田城と呼ぶのが正しいようです。もちろん(?)、久保田城を秋田城と呼ぶある種の誤用も少なくないようですが。
 久保田城は、関ヶ原の戦いを経て秋田の地に封じられた佐竹氏によって築かれました。常陸水戸城を基盤に、関東北部に六十万石に届こうかと言う一大勢力を築いた佐竹氏でしたが、関ヶ原の戦いにおいては「東軍でも西軍でもなく、豊臣家のために忠節を尽くす」という立場を崩しませんでした。家康に対して目立った敵対行動こそ取らなかったものの、結果として疎まれることは避けられなかったようで、戦後は改易こそ免れたはしましたが、羽州に減転封となります。

■簡素なつくりの城

 新天地に築かれた久保田城は、かつての居城とは比ぶべくもない質素な城でした。およそ一年程度と言う、近世城郭としては短期間のうちに完成を見た城には、高い石垣や深い堀はなく、自然の沼地を堀の代わりにし、土塀・板塀で囲われた平屋ないしは二層の建物があるだけだったと伝えられています。
 久保田城がこのような造作になった理由については、幕府に対する配慮があったためとも、佐竹氏本来の築城技術が西国大名のそれほど発達していなかったためとも、あるいは新領国の国力不足のためとも、色々に考察されています。おそらくは、そのどれもが一面の真理だったのでしょう。
 一方、城とは対照的に、城下町の整備は入念な計画に基づいて行われました。これらと前後して行われた、領国内外を結ぶ主要街道の整備とも相まって、町は城を守る最終防衛ラインとしても機能するものでした。そしてこの城下町が、明治まで続く佐竹氏十二代の治世の基盤となりました。

■城跡に残るもの

 千秋公園を訪ねたのは、ちょうど東北三大祭の一つである竿灯祭りの日のことでした。駅周辺の繁華街は、祭りを目前に控えて賑わっていましたが、公園内は落ち着いたたたずまいを見せていました。
 久保田城跡からは、確かに当代最高の技術を用いて作られた城という印象は受けませんでしたが、城郭の規模そのものは決して小さなものではありません。公園内には、現存建物としては唯一のものとなる御物頭御番所のほか、発掘調査を元に復元された表門、同じく旧来のものに展望室を付け加える形で建造された御隅櫓などがあります。また、公園の中心近くには佐竹義堯の銅像が立っています。最後の藩主となった人物で、全国的な知名度は無いものの、秋田県の歴史において顕著な功績があった人なのかもしれません。

(2011年10月05日 初掲)





























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