山中鹿之助の悲願が潰えた城。
上月城
所在地
別名
兵庫県佐用郡佐用町上月
:なし
築城者
築城年
:得平頼景
:正治年間(1199〜1201)


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■主家の再興を夢見て

 かつて一世を風靡した映画「八つ墓村」と横溝正史によるその原作小説は、昭和13年(1938)に現在の津山市で発生した大量殺人事件を縦糸に、毛利氏によって滅ぼされた尼子の落武者の怨念を横糸に織り成された物語でした。私は未だに津山と言えば「八つ墓村」を連想してしまうのですが、思うに「八つ墓村」は、仁義忠孝の権化のような人物として、講談の類でその名を知られた山中鹿之助幸盛の負の影響が色濃く投影されたお話だったのではないでしょうか。戦国の世の常とは言え戦の果てに滅亡した大名家と、主家再興とために東奔西走した幸盛のエピソードは、見る者が見れば一種の妄執のようなものとも取れ、しかもそれが成就しなかったとなれば…。もちろん「八つ墓村」には幸盛は出てきませんし、キーパーソンとなる尼子義孝も架空の人物ですが、史実の尼子氏が辿った無念の末路から喚起されるイメージは、祟り話の下地とするのにもってこいだったのではないか。そんな風に思うのです。
 順番が前後しましたが、結論から言ってしまえば戦国大名尼子氏は滅亡の運命を辿っています。幸盛は尼子の傍流であった尼子勝久を担ぎ出し、怨敵毛利氏にとっては最大の敵であった織田氏の客将分となりその力にすがる事で尼子の家を再興しようと目論んだものの、再び戦に敗れ、主従はあえない最期を遂げることになりました。
 上月城は、尼子主従最期の戦いの舞台となった城です。

■上月合戦

 上月城は、正治年間(1199)に得平頼景によって築かれたと伝えられています。古くは、現在上月城址と呼ばれている荒神山上月城の北に位置する大平山に城があったようですが、上月氏を名乗った頼景の後裔・上月景盛あたりで現在地に城が移されたと考えられています。しかし嘉吉の乱に伴って上月氏は途絶え、代わり赤松氏が城に入ります。その赤松氏も天正5年(1577)に羽柴秀吉によって滅ぼされ、城は織田軍中国戦線最前線の城となり、勝久の守るところとなりました。
 しかし流石に織田と毛利という二強の勢力境界線上に位置していた城だけあり、度重なる戦の中で城の帰属は二転三転します。一旦は城を追われ、再び上月城代の座に返り咲いた勝久・幸盛主従でしたが、天正6年(1578)に毛利氏が山陰・山陽の両面から三万の大軍を投入して城を包囲したところで、勝久らの命運は尽きました。当時「干殺し」で知られる三木城攻めにかかっていた秀吉の援軍は来たらず、勝久は自刃して開城、捕縛された幸盛は備中松山城下で斬殺され、ここに尼子氏再興の望みは潰える事となりました。現地解説板によれば、天正年間に行われたこれら一連の戦いを上月合戦と呼ぶのだそうです。

■小規模な山城

 現在の上月城址には堀切や削平の跡が見られ、戦国山城の痕跡をわりあいに良く残しています。もっとも、その縄張りや築城術に出色のものはなく、一時的にではあるにせよ、築城と土木技術に関してかなりのノウハウを蓄積していたであろう織田氏の勢力下にあったわりには地味な城という印象も拭えません。単に大掛かりな改修を施す時間がなかっただけという見方も可能ですし、あるいはもともと決戦用の城という位置づけではなかったのかもしれません。一つだけ実感として分かるのは、この城で後詰もなしに三万の軍勢と戦うのは土台無理な話だっただろうと言う事です。信長が尼子主従を拾った理由は色々考えられるものの、最終的には捨て駒にして終わった感は否めません。
 なお、山上の本丸跡には赤松氏を弔う慰霊碑が残されています。文政8年(1825)に建てられた古い碑で、当然ながらその頃の上月城址は城としては機能していませんでした。城は、上月合戦の後間もなく廃城となったようです。対する山麓には勝久や幸盛の慰霊碑がある他、上月歴史資料館が営まれています。上月城関連の展示の他、この地方の民俗に冠する資料も陳列されています。城跡は駅から近い反面、列車本数自体は極端に少ないため、公共交通機関でお越しの際はご注意を。

(2008年04月14日 初掲)





















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