滅び行く古豪・大内氏の城。
高嶺城
所在地
別名
山口県山口市上宇野令
:鴻峯城
築城者
築城年
:大内義長
:弘治2年(1556)


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■混乱期の詰城

 山口市内に築かれた高嶺城(こうのみねじょう)は、もとは大内氏による城でした。
 領内に小京都文化を花開かせたものの、武断派の家臣である陶隆房(晴賢)の謀反(大寧寺の変)によって滅ぼされた大内義隆には、文弱傾向に溺れた大名というマイナスイメージが付きまといますが、武門の家としては評判の良くなかった文化振興策も、全国有数と言える大内氏の強大な権勢を背景にしたものであるのもまた事実でした。
 高嶺城は、大寧寺の変後、晴賢によって傀儡当主の座に据えられた大内義長によって築かれた典型的な詰め城です。大内氏はあまり大規模な城郭を残してはいないようですが、強大な勢力を誇っていた同氏のこと。当主の弑逆という変事に乗じて安芸で勢力を強める毛利氏に備え、堅固な構えと規模を備える城を構想したものだったと考えられます。

■毛利軍を前に放棄

 一方、機を見るに敏であった毛利元就は、天文24年(1555)の厳島の戦いで大内氏の実権を握っていた晴賢を討ち取ると、大内氏の勢力が弱体化していることを見て取り、二年のうちに防長に侵攻を開始しました。結果、未完成のままに敵を迎えることになった高嶺城は、毛利の軍勢を防ぎ切るには力不足であると判断され、放棄されることになります。その点では武田氏の新府城が思い出されるところです。
 毛利軍は防長二カ国を席巻し、義長は下関まで落ち延びて自刃。大内氏はついに滅亡の運命を辿りました。その後の高嶺城は、毛利氏により整備され、その旧大内領統治の拠点となりましたが、関ヶ原の戦いを経て毛利氏が周防長門の二カ国に押し込められた際に、その中心政庁が萩城に定められたのに伴い、廃城となりました。

■宿敵の手により完成を見る

 城は、現在では山口市街に接する標高338mの鴻峯に築かれました。大内氏にゆかりの山口大神宮の裏手から登山道が伸びており、これを登っていくと山頂周辺を中心に現在も広い削平地など、城の遺構が残されています。また、石垣もかなり目を引きます。もっとも、尾根筋に沿って展開される縄張りそのものはさほど大規模なものではなく、大内氏が作りかけた決戦用の城に、毛利氏が手直しを加えて完成させた城という意識を持って見てみれば、確かにそのように見えなくもありません。
 ちなみに、市街地に近い里山の常で、ハイキングコースにもなっており、要所要所では山口の町並みを眼下に見下ろすことの出来る山でもあります。

(2010年10月30日 初掲)















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