下総を巡る攻防の舞台となった城。
国府台城
所在地
別名
千葉県市川市国府台
:鴻之台城
築城者
築城年
:太田資忠
:文明11年(1479)


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■国府台築城

 世に国府台合戦と呼ばれる戦いがあります。規模は戦国後期の合戦に比べれば小さなものですが、関東の戦国史を語る上ではわりに重要な出来事と言えます。一次・二次と二回の戦いがあって、それに至る経緯や、それぞれに関わった人たちとの間には相関と言えるほどのものはないのですが、小田原北条氏と里見氏との間で衝突があったと言える点は、共通しています。
 江戸川の左岸に当たる国府台は、下総国に属し、国府台城は下総側の最前線となる城でした。国府台城自体は国府台合戦の主戦場となったことはありませんが、江戸川に面する河岸段丘に築かれており、合戦前後における軍事上の要衝ではありました。城を築いたのは太田道灌の弟・資忠で、15世紀末のことだったと言われています。

■国府台合戦

 第一次合戦は、天文7年(1538)に小弓公方・足利義明と、小田原北条氏の二代・北条氏綱が争ったものです。いずれも勢力拡大の登り坂にあった二勢力は、大げさに言えば南関東における主導権をかけて争いました。里見氏は、消極的ながら足利氏に加勢しています。一方の北条軍には、御曹司である氏康も参加しており、次代の争いを予感させる戦いではありました。この戦いについては、いずれまた触れる機会もあるかと思います。
 一方、第二次合戦は若干趣を異にしており、永禄7年(1564)に勃発しました。この時期になると、北条氏によって関東を追われた上杉憲政の要請を受け、越後の上杉謙信が度々関東への進出を企てるようになっていました。関東の諸豪族には、北条氏によって辛酸を舐めさせられた者も多く、自然にこれと敵対した謙信の求心力も増していきました。天文の頃から常に北条氏の圧迫を受け続けていた里見氏が謙信に接近したのはもちろんのこと、一度は北条氏の軍門に下った太田康資も、上杉方への寝返りを画策します。しかし、この計画は事前に北条方の知るところとなり、逆に氏康の討伐を受けることになります。康資の救援のため、謙信は里見義弘の出陣を要請し、義弘もこれを受け入れました。里見軍は、前進基地となる国府台城に入城しています。緒戦は、浮足立った北条軍の先鋒を里見軍が迎撃する形となったため、里見方が優位に事を運びましたが、直後に事態は一転、北条軍の夜襲を受けて潰走状態に陥り、北条氏の影響力は再び下総にまで及ぶことになりました。もっとも、後年の里見氏は再び北条氏勢力を押し返すことに成功しており、境目の城であった国府台城の帰属は、なおも転々としました。最後は、徳川家康の関東移封の頃に廃城されたようです。

■その遺構

 現在、国府台城跡は里見公園となっています。規模のわりにきれいに整備された都市公園で、植物園さながらに花もたくさん植えられていますが、全体的なつくりは、明らかに史跡保存目的のものではありません。城跡であるがゆえに用地取得しやすかったから公園になったと、そんな見方もできそうです。
 前述したとおり江戸川に面する台地上にあるため、現在でも自然地形の上からおおよその位置に目星を付けるのは難しくない城跡ですが、園内に城郭遺構らしきものを探すのは困難を極めます。一応、土塁らしきものの断片はありますが、現地でもほとんど顧みられることはありません。
 最も史跡らしさを漂わせているものと言えば、「里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑」とされる石碑群です。第二次合戦で討ち死にした将兵達の慰霊のため建立されたもののようで、合戦からかなり時代の下った文政12年(1829)頃のものだと言うことです。この他、弘次(広次)の娘の哀話を伝える「夜泣き石」と呼ばれる遺物も残されており、里見氏側に立った逸話の多さが印象に残ります。ちなみに弘次は十五歳の初陣で討ち死にしたと伝えられていますが、夜泣き石の伝説には歳の頃なら十二、三になった弘次の娘が登場します。現地でも言及されている通り、おそらくは誤伝なのでしょう。

(2015年07月06日 初掲)





















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